室町幕府とは
「室町幕府(むろまちばくふ)」は、具体的にどのような政権だったのか、主な特徴を紹介します。また、今日の伝統文化への影響が大きいとされる室町文化についても見ていきましょう。
約240年続いた武家政権
室町幕府は、足利尊氏(あしかがたかうじ)が武家政権の再興を図って京都に開いた政権です。1336(建武3・延元元)年、幕府の政治要綱となる「建武式目(けんむしきもく)」を発布し、1338(暦応元・延元3)年に、尊氏が征夷大将軍に任命されてから約240年続きました。しかしその実、将軍の権力は弱く、有力な守護大名との連合政権のようだったことが、室町幕府の特徴といえるでしょう。
最盛期とされる3代将軍足利義満(よしみつ)が京都の室町に豪華な邸宅「花の御所(はなのごしょ)」を構え政治を行ったことから、「室町幕府」と呼ばれるようになりました。その花の御所の隣接地に義満が建立したのが、伊藤若冲(じゃくちゅう)が「動植綵絵(どうしょくさいえ)」を寄進したことでも知られている相国寺(しょうこくじ)です。
室町文化の特徴
室町時代には、伝統的な公家(くげ)文化と新興の武家文化が混ざり、室町文化が生まれました。
義満の時代から約半世紀栄えた文化は「北山(きたやま)文化」と呼ばれており、代表的な建築物が「金閣寺(鹿苑寺=ろくおんじ)」です。伝統的な公家邸宅の寝殿造(しんでんづくり)と寺院風の仏殿造、武家造を併せ持つ造りになっています。日明(にちみん)貿易によって、水墨画や文学も発展するなど、大陸文化を取り入れた華美な文化でした。
8代将軍義政(よしまさ)の時代から約半世紀栄えた文化は「東山(ひがしやま)文化」と呼ばれており、寝殿造と書院造を併せ持つ「東求堂(とうぐどう)」が代表的な建築物です。「銀閣寺」が建築されたのもこの時代です。禅の心を取り入れ「侘(わ)び・寂(さ)び」を重んじる東山文化では、日本独自の水墨画・茶道・華道・庭園など、日本の伝統文化が形成されました。
▼東山文化・北山文化についてはこちら
室町幕府の歴史
学生時代に習った記憶があっても、室町時代にどのような出来事があったのか覚えていない人もいるのではないでしょうか。どのようにして政権が誕生し滅びていったのか、室町幕府の歴史について順を追って紹介します。
後醍醐政権への不満の高まり
1333(正慶 2・元弘3)年に足利尊氏は、後醍醐(ごだいご)天皇とともにモンゴル帝国の侵略によって弱体化した鎌倉幕府を倒しました。その後、政治の中心は鎌倉から京都に移され、天皇による「建武の新政」と呼ばれる改革が始まったのです。
鎌倉時代は、いわば武士のための政治であったのに対し、天皇の政策は、天皇の命令書によってすべての決定がなされるものでした。そのため、人々の生活は苦しくなり、多くの武士が不満を抱くようになっていったのです。
室町幕府の誕生
1336年に、尊氏を中心とする武士たちは、後醍醐天皇に対して反乱を起こし、京都を制圧しました。光明(こうみょう)天皇を新しい天皇として即位させ、建武式目を発布するなど政治を取り仕切ったのです。
これが、武士のための政治である「室町幕府」の始まりです。そして尊氏は、1338年に正式に征夷大将軍に任命されました。
京都を追われた後醍醐天皇は、奈良県の吉野(よしの)に新しい朝廷を立て、京都の「北朝(ほくちょう)」と奈良の「南朝(なんちょう)」の対立が約60年続きました。国内に大きな混乱をもたらしたこの時代は「南北朝時代」と呼ばれています。後に、この対立を収めて朝廷を一つにまとめたのが、3代将軍となった足利義満です。
15代続いた足利氏の室町幕府
室町幕府が開かれた当初は、尊氏と弟の直義(なおよし)で職務を分けた「二頭政治」がうまくいっていました。しかし考え方の違いなどから、二人は対立するようになり、1349(貞和5・正平4)年から1352(文和元・正平7)年まで「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」と呼ばれる内部抗争が続いたのです。
室町幕府が最も栄えた時期は、3代将軍義満の時代です。明から国王と認められたことで日明貿易が始まり、刀や槍(やり)などを貢物(みつぎもの)として送り、そのお返しに絹や銅製のお金を受け取り、大きな利益をもたらしました。その後、室町幕府は15代まで続きます。
室町時代には農業や工業も発展し、農民による自治組織「惣(そう)」ができたり、独立する職人が出てきたりしました。定期市や小売店も増加したとされています。
1573年に室町幕府は滅亡
その後、室町幕府は弱体化していき、各地の大名が力を付ける「戦国時代」へと突入します。そんな動乱のなか、1568(永禄11)年には、尾張(おわり)・美濃(みの)を支配し、勢力を広げはじめた織田信長(おだのぶなが)が京都に入り、足利義昭(よしあき)を15代将軍に就任させました。
しかし肩書だけで、何の権力も持てなかった義昭は、不満を抱くようになりました。二人は不仲となり、対立する関係になっていったのです。
義昭はうとましい存在の信長を討つよう各地の大名に指示しましたが、信長は各地で勝利します。そして1573(元亀4)年に義昭が京都から追放されたことで、室町幕府が滅亡したのです。
室町幕府が滅亡した理由
室町時代が滅亡した最終的な理由は、足利義昭が京都を追われたことです。しかし、それ以前から、すでに着々と滅亡へと向かっていました。どのような理由やきっかけがあったのか紹介します。
応仁の乱がきっかけに
室町幕府滅亡のきっかけとなったのは、1467(応仁元)年に起きた「応仁(おうにん)の乱」です。8代将軍足利義政の後継者争いが発端となり、全国の守護大名が二手(ふたて)に分かれて争いました。
守護大名の家督相続争いや主導権争いなど、さまざまな要因が絡み合ったことで争いは11年も続き、京都は焼け野原となってしまったのです。
応仁の乱によって、将軍の権限が失われたことや、守護代や国人の勢力が強まったことで、守護大名の領地が守護代や国人に奪われるなど「下剋上(げこくじょう)」が始まりました。下剋上もまた、室町時代を滅亡へと向かわせる原因だったと考えられています。
室町幕府は、鎌倉時代や江戸時代と比較すると、強力な収入源がなく、弱い組織であったことも滅亡に至った理由でしょう。
▼応仁の乱についてはこちらも参考に
戦乱を繰り返した室町幕府
室町幕府は、足利尊氏が1336年に京都を制圧、「建武式目」を制定し、1338年に征夷大将軍に任命されてから約240年続いた政権です。15代まで続きましたが、南北朝時代や観応の擾乱、応仁の乱など、戦乱が繰り返された時代でもあります。
なかでも、応仁の乱は幕府の権限の失墜(しっつい)や下剋上のきっかけとなり、室町幕府の滅亡を招いた重要な出来事といえるでしょう。
室町幕府をもっと知るための参考図書
小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史8「南朝と北朝」
小学館版学習まんが 少年少女日本の歴史9「立ち上がる民衆」
ポプラ社コミック版 日本の歴史31「室町人物伝 足利尊氏」
ポプラ社コミック版 日本の歴史32「室町人物伝 後醍醐天皇」
小学館版 学習まんが はじめての日本の歴史6「室町幕府と民衆」
小学館文庫 井沢元彦「天皇になろうとした将軍」
集英社版・学習漫画 日本の伝記「足利尊氏 南北朝の動乱を生きぬいた武将」
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構成・文/HugKum編集部