幻の都といわれた「長岡京」。わずか10年ほどで遷都したのはなぜ?【親子で歴史を学ぶ】

長岡京は、昭和時代の発掘調査により存在が明らかになった珍しい都です。平城京から長岡京に遷都後、わずか10年ほどでなぜ平安京に遷都する必要があったのか、遷都をめぐるいきさつや当時の人々が恐れた怨霊・祟りについても考察していきます。

「平城京」から「長岡京」へ遷都

長い間「幻の都」といわれ、実在を疑われていた「長岡京(ながおかきょう)」は、どのような都だったのでしょう。なぜ、たった10年程度で遷都(せんと)することになったのか、さらに長岡の地を選んだ桓武天皇(かんむてんのう)についても見ていきます。

長岡京は、どのような都?

奈良時代末期から平安時代初期にあたる784(延暦3)年、桓武天皇は都を平城京から長岡京へ移します。場所は、京都府の南西部で、現在の向日(むこう)市・長岡京(ながおかきょう)市・大山崎(おおやまざき)町・京都市の一部にわたる、広大な面積を有していました。

長岡京は、平城京や平安京と同等の規模を持つ本格的な都でした。完成を待たずに桓武天皇は自ら長岡に移り、遷都を決行します。それは平城京を離れたい理由があったからです。

桓武天皇陵「柏原陵(かしわばらのみささぎ)」(京都市伏見区)。桓武天皇の生母は百済系渡来人とされる。2001(平成13)年、サッカーワールドカップ日韓開催に関して天皇明仁は、そのお言葉で「桓武天皇の生母は百済の武寧王(ぶねいおう)の子孫」と発せられた。

遷都の理由

桓武天皇が長岡京へと遷都を決めた理由は、大きく分けて三つあるといわれています。

●平城京の仏教勢力から離れたかった
●皇統が天武(てんむ)系から天智(てんじ)系に代わった
●長岡の地は、水陸の交通の便がよかった

奈良時代、朝廷は仏教を手厚く保護してきたこともあり、奈良の大きな寺は強大な力をつけていました。政治に干渉することも多くなり、桓武天皇は奈良時代の悪弊(あくへい)を避けるため、仏教勢力を遠ざける道を選んだのです。

また、桓武天皇の父・光仁(こうにん)天皇は、奈良時代初の天智系の天皇です。皇統が代わり新しい時代になったことを、遷都という形で明確に知らしめようとしたのでしょう。

長岡の地を選んだのは、平城京における水上交通の不便さが理由の一つといわれています。全国からの物資をすべて陸路で運ばなければならないという不便さを克服するため、桂(かつら)川・宇治(うじ)川・淀(よど)川に囲まれた長岡の地が選ばれました。

桓武天皇はどのような人物?

桓武天皇、こと若き日の山部(やまべ)親王は、光仁天皇の長男として737(天平9)年に生まれましたが、当初は皇太子ではありませんでした。ところが、先の皇太子は謀反(むほん)の罪で失脚し、代わりに山部親王が皇太子となり、781(天応元)年に45歳で即位しました。

桓武天皇は即位すると、直ちに同母の弟・早良(さわら)親王を皇太子に立てます。そして長岡京造営に着手しましたが、その後10年ほどで平安京に遷都します。

そのかたわら、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)に命じて蝦夷(えみし)討伐を行い、東北地方を朝廷の影響下に収めましたが、度重なる遷都と蝦夷討伐は、人々にとっては重い負担となりました。桓武天皇は民(たみ)の苦しみを思い、805(延暦24)年に、平安京造営・蝦夷経営を二つとも中止することを決定し、翌年、亡くなりました。

桓武天皇は自ら政治を行った天皇として、歴代天皇の中でも珍しい人物です。

平安神宮「大極殿(外拝殿)」(京都市左京区)。1895(明治28)年に、平安遷都1100年を記念して建立。平安京最初の天皇・桓武、最後の天皇・孝明を祀る。社殿は、平安京の大内裏の朝堂院を、8分の5サイズで復元している。重要文化財。

「長岡京」から「平安京」へ遷都

桓武天皇が思いを込めて遷都した長岡京でしたが、わずか10年ほどで平安京へ再度、遷都せざるを得なくなりました。その理由は何だったのでしょうか。

長岡京を廃した理由

785(延暦4)年、長岡京造営の責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されます。この暗殺事件の主犯と疑われたのが、皇太子の早良親王でした。早良親王は無実を主張して、流刑(るけい)で護送される途中に絶食、死亡しました。

その後、折から流行していた疫病も影響して、桓武天皇の母や妃たちが次々と亡くなります。都では、それを早良親王の祟(たた)りではないかと恐れました。そんななか、和気清麻呂(わけのきよまろ)の建議により、新しい都を求めることになったのです。

人々が恐れた怨霊・祟りとは

この時代の人々は、不幸な出来事が続くと怨霊(おんりょう)・祟りといって恐れました。特に早良親王の餓死事件は、無実を主張しての抗議とも受け取れるので、恨みを残して亡くなっていることは明らかです。

桓武天皇は、早良親王の怨霊を鎮めるために、「崇道(すどう)天皇」という諡号(しごう:貴人に死後おくる名前)を贈りました。さらに各地に御霊(ごりょう)神社を造り、親王の御霊(みたま)を祀(まつ)っています。

一説では、桓武天皇が弟をだまし討ちにしたともいわれており、桓武天皇は後ろめたさを感じていたのかもしれません。怨霊・祟りが恐れられた根底には、権力者の「後ろめたさ」という胸中が大きな影響を及ぼしたのでしょう。

長岡京の発掘調査

長岡京は長い間、その存在が疑わしいとされていました。しかし、昭和時代の発掘調査によって、存在したことが明らかになったのです。

「幻の都」の調査開始

長岡京の発掘調査のきっかけは、市立西京高校の教諭だった中山修一氏の長岡京研究でした。中山氏は、長岡京全体の復元図を描き起こし、条坊制(じょうぼうせい、碁盤の目のように区切られた区画)の都だったことを主張します。

1954(昭和29)年に発掘調査が始まると、翌年に大内裏朝堂院(だいだいりちょうどういん)の門跡が発見され、実在の都だったことが確認されました。1961(昭和36)年には大極殿(だいごくでん)跡が発見され、1964(昭和39)年に国の史跡に指定されています。

長岡宮「大極殿」跡(京都府向日市)。大極殿とは古代における朝廷の正殿で、即位の大礼や国家的儀式を行う。長岡宮は平城宮から宮殿を移築せず、難波宮から移築している。また平安京への遷都後は、この長岡宮地域は菅原道真の領地になったとされる。

発掘調査で分かったこと

長岡京は、唐(とう)の都・長安(ちょうあん)をモデルにした条坊制の大規模な都であったことが、発掘によって確認されています。重要な門や建物は、平城京を解体して長岡京へ移築していたようです。

天皇が政務を執る長岡宮は、小高い丘の上にあり、都を見渡せる立地でした。役人が政務を行う朝堂院とその北側に大極殿があるという配置は、平城京や平安京と同じです。長岡京が本格的な都を目指して、造営されていたことが分かります。

長岡京の発掘調査は、現在でも続いており、さまざまな重要な発見が報告されています。

まとめ|「幻の都」は、長岡京市として名前を残す

長岡京は、784(延暦3)年に桓武天皇によって遷都されました。奈良の仏教勢力から離れるために新しい都を造る必要があり、水陸の交通便のよい長岡が選ばれます。しかし、桓武天皇の弟・早良親王の祟りが噂され、10年ほどで再度遷都せざるを得なくなりました。

これまで実在していたかどうか不明だった長岡京ですが、昭和に入ってからの発掘調査で実在したことが証明されています。長岡宮跡には「史跡長岡宮跡朝堂院公園(向日市)」が整備され、多くの人々が訪れています。長岡京の名前を受け継いだ「長岡京市」も、観光スポットとして有名です。

幻の都を訪ねてみれば、当時の人々の怨霊・祟りを恐れる気持ちが伝わってくるかもしれません。目に見えぬものへの畏怖(いふ)を忘れてしまった現代人にとって、よい刺激になるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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