「マグナ・カルタ」は法律とは違うの? 制定の背景と内容を詳しく知ろう【親子で歴史を学ぶ】

マグナ・カルタは、イギリス憲法の基盤になったとされる重要な文書です。世界史を学べば必ずといってよいほど登場します。しかし、内容まで知っているという人は少ないかもしれません。マグナ・カルタについて分かりやすく解説します。
<画像:マグナ・カルタの写本(1215年)By the British Library(PD)>

マグナ・カルタとは?

「マグナ・カルタ」は「大憲章(だいけんしょう)」と訳されます。憲章とは、国や市町村、組織や団体において最も重要で根本的な取り決めや、それらを明文化したもののことです。

ではマグナ・カルタには、どのような取り決めが記されているのでしょうか?

イギリス憲法の一部を構成する「大憲章」

マグナ・カルタとは、1215年に貴族や都市の代表者が、イングランド国王ジョンに強制的に認めさせた文書です。

それまで国王は、神に匹敵する権力を持つとされ、裁かれたり法に縛られたりすることはありませんでした。例えば、極端な課税や不当な逮捕なども、国王がすることであれば罪には問われなかったのです。

しかし、マグナ・カルタには「国王であっても法の下にある」と記されていました。国王もまた、法を守る義務があることが、初めて明文化されたのです。

そのためマグナ・カルタは、憲法を制定することで権力者の権力乱用を制限する「立憲主義」の第一歩とされており、現在の「イギリス憲法」を構成する一部にもなっています。

ピカデリーサーカス(イギリス・ロンドン)。ウェストミンスター区の広場で自由主義を謳歌するロンドンの若者たち。成立から800年以上たってもマグナ・カルタの精神が生きている。
ピカデリーサーカス(イギリス・ロンドン)。ウェストミンスター区の広場で自由主義を謳歌するロンドンの若者たち。成立から800年以上たってもマグナ・カルタの精神が生きている。

マグナ・カルタが制定された背景

マグナ・カルタが制定されたジョン王の治世は、どのような時代だったのでしょうか。国王が、臣下であるはずの貴族たちから、署名を強制された理由とあわせて見ていきましょう。

国王の度重なる失敗

ジョン王は、イングランド史上、最も悪名の高い国王とされています。失策や敗戦といった失敗を重ね、国に不利益をもたらしたためです。

「欠地王」との悪名も残るジョン王の肖像画 From Cassell’s History of England (1902) Wikimedia Commons(PD)

ジョン王の父にあたるヘンリー(アンリ)2世は、イングランドだけでなく、フランス国内にも広大な領地を持っていました。その権利は、王位とともにジョン王に与えられます。しかし、フランス国内の領地は、時のフランス国王・フィリップ2世の侵攻によって奪われてしまいました。

また、1205年には、カンタベリー大司教の死去に伴い、ジョン王は司教叙任権を主張して、時のローマ教皇・インノケンティウス3世と対立。その結果、教皇の怒りを買って、イングランドは1208年に「聖務停止」とされました。そのためイングランド国民は、教会での洗礼・堅信・婚姻などの秘蹟(神の恩恵を授かること)を受けられなくなったのです。

続く1209年、ジョン王が教皇から破門されたことで、イングランドの混乱はさらに大きくなっていきます。

貴族の主導による内乱勃発

ジョン王の破門により、対外的にイングランドは「キリスト教国」ではなくなったとされました。この機に乗じて、フランス国王・フィリップ2世はイングランドに侵攻します。状況が極めて不利だったため、ジョン王は教皇に屈服・謝罪し、毎年の寄進を条件に破門を解いてもらいました。

一件落着と思われましたが、ジョン王は、さらに失策を重ねます。フランス国内の失った領地を取り戻そうと出兵し、フィリップ2世に大敗するのです。

ジョン王は戦費調達のために、臨時の課税や、出兵する代わりに資金を提供する「軍役代納金制度」を乱用しました。戦果が得られないばかりか、資金の供出が度重なったことで貴族や人民は不満を募らせ、貴族主導の内乱が勃発(ぼっぱつ)するに至ります。

国王が、マグナ・カルタを承認

1215年5月17日、ついに貴族(封建領主)たちが一部の市民とともに蜂起(ほうき)し、ロンドンを占領しました。貴族側に有利な状況となったため、中立派も続々と貴族側に加わります。国王は危機感を抱き、貴族たちと交渉の場を設けました。

ローマ教皇特使の仲裁の下、5月末から交渉が行われ、貴族側からは全63条に及ぶ条文が提出されます。これが「マグナ・カルタ」です。ジョン王が、テムズ河畔(かはん)のラニーミードにてマグナ・カルタを認め、署名をしたのは1215年6月15日のことでした。

ウィンザー城(イギリス)。ロンドンの西34㎞に位置し、英王室の居城。貴族の所領を没収する勅令を発したジョン王だが、貴族たちが武装蜂起したため、王はこのウィンザー城に立てこもったという。ラウンドタワー(写真中央)に王室旗があるときは、国王が所在する。
ウィンザー城(イギリス)。ロンドンの西34㎞に位置し、英王室の居城。貴族の所領を没収する勅令を発したジョン王だが、貴族たちが武装蜂起したため、王はこのウィンザー城に立てこもったという。ラウンドタワー(写真中央)に王室旗があるときは、国王が所在する。

マグナ・カルタの主な内容

マグナ・カルタは、全63条から成る長大な条文です。また原文がラテン語であることから、16世紀になってようやく英訳されました。制定当時は、国王や貴族といった特権階級のための文書でしたが、条文の内容には一般庶民の権利も含まれています。

王権の制限

マグナ・カルタの主な内容として、まず挙げられるのが「王権の制限」です。

例えば、第12条では国王の独断では課税できない(国王の課税権の制限)としています。課税する場合は、一般評議会の同意が必要(課税同意の原則)でした。さらに第14条では、一般評議会を開催するには、大僧正(だいそうじょう)・僧正といった聖職者や貴族たちを招集することとされています(課税同意の手続き)。

また、第40条では国王であっても正義と司法に従い、誰に対しても拒否や遅延をしないことも定めています(裁判の尊重)。

商業活動の自由化と度量衡の統一

マグナ・カルタでは、第41条において、商業活動のためにイングランドへの出入国やイングランド国内の自由な移動・滞在を保障しています(商業活動の自由)。

また、度量衡(どりょうこう)の統一も行いました。第35条では、ブドウ酒の枡目(ますめ)や染色布などの幅や目方(重量)を単一にすることとしています。これは同一の基準や単位を用いて、全国どこでも商取引などを公平に行えるようにするためです。

度量衡の統一は古くからあり、中国では紀元前に中国統一をした「秦(しん)の始皇帝(しこうてい)」が初めて行ったとされています。日本では、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が「太閤検地(たいこうけんち)」という形で実施しました。マグナ・カルタの時代にも、長さや重さの基準を作ることが大切だったと想像できるでしょう。

秦始皇帝像(中国西安市)。始皇帝は、紀元前246年から紀元前208年にかけて、大規模な陵墓や兵馬俑(へいばよう)を造ったが、経済的にもさまざまな一体化を図っている。度量衡だけでなく、通貨、車軌、記数法、市制の標準化、漢字書体の統一なども行っている。
秦始皇帝像(中国西安市)。始皇帝は、紀元前246年から紀元前208年にかけて、大規模な陵墓や兵馬俑(へいばよう)を造ったが、経済的にもさまざまな一体化を図っている。度量衡だけでなく、通貨、車軌、記数法、市制の標準化、漢字書体の統一なども行っている。

現代の人権尊重につながる内容も

マグナ・カルタには「人権=人間が生まれながらに持っている権利や自由」を保障する条文も含まれています。

第30条や第31条では市民の権利を保障しています。市民個人の所有物を、強制的に取り立ててはならないとするものです。また、第39条において、裁判や法の適用なしに逮捕や投獄(とうごく)、追放することを禁じました(自由人の権利・適法手続きの原則)。

マグナ・カルタの原則は、現代の人権尊重につながるとして、明文化から800年以上たった現在のイギリスでも生きています。アメリカの合衆国憲法にも影響を与えたとされるなど、民主主義の歴史においても重要な存在です。

マグナ・カルタは、現代にも通じる重要な憲章

マグナ・カルタは国王の権限を制限し、法に従う義務があることを明文化した文書です。条文には、市民の自由や権利を保障するものもあり、人権尊重や民主主義などの出発点になったと考えられ、イギリスだけでなく、さまざまな国の憲法や法律に影響を与えたとされています。

また、内容の一部は、現代まで引き継がれています。マグナ・カルタの内容や意義について、親子で考える機会を持ってみるとよいでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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