イギリス「権利章典」とは?
「権利章典」とは、いつ制定されたもので、どのような特徴があるのでしょうか。覚えやすい語呂合わせも併せて解説します。
名誉革命で制定
1688年、イギリスにおいて、国王と議会が対立する「名誉革命」が起こりました。この革命がきっかけで、1689年12月に制定された法律が「権利章典(正式名称:臣民の権利および自由を宣言し、王位継承を定める法律)」です。
権利章典では、国民の権利・自由や、王権に対する議会の優位が確認されました。名誉革命後の1689年2月にイギリス議会が提出した「権利宣言」を基に作られており、この宣言とほぼ同一の内容となっています。
立憲君主制が特徴
権利章典は、君主の権力を憲法によって制限する「立憲君主制」の基礎を確立しました。
「君主制」とは、1人の君主によって統治される政治の形です。イギリスはもともと、国王が絶対的な権力を持っていました。このような政治形態を「絶対王政」といいます。
対して「立憲君主制」は制限君主制とも呼ばれ、君主が憲法・法律などにより、一定の制限を受けて治世を行う形態を指します。
権利章典により「議会の決定は、王の権力に優先する」との考えが生まれ、議会の決定に基づいて政治が行われる「議会政治」が成立しました。
立憲君主制と議会政治による政治体制は、現在のイギリスでも続いています。
語呂合わせで覚える権利章典
権利章典と、それが制定されるきっかけとなった名誉革命には、覚えやすい語呂合わせがそれぞれあります。
≪1688年:名誉革命≫
「いろはは自由だ名誉革命」
≪1689年:権利章典の制定≫
「王無役(おうむやく)君臨すれども統治せず」
「王は君臨すれども統治せず」という言葉を、学校の授業などで聞いた覚えがある人もいるかもしれません。これは「国王は存在するが、政治権力は持っていない」状態を指し、近代イギリスの政治体制を象徴する言葉でもあります。
名誉革命で立憲君主制が確立し、国王が政治に関与しなくなったことを表しているのです。
名誉革命は、なぜ起こった?
名誉革命までのイギリスは、王政と共和制の二つの政治体制を行き来していました。名誉革命が起こるまでの時代背景を見ていきましょう。
名誉革命までの歴史的背景
イギリスではもともと、国王が絶対的な権力を持っていました。
しかし、国王が専制政治を強化し、清教徒(ピューリタン)弾圧などを行ったため、1640年代に清教徒を中心に反乱が起こり、国王であるチャールズ1世は処刑されました。これを「清教徒革命」といいます。
ちなみに清教徒とは、キリスト教の宗派の一つです。イギリス国教会のあり方に批判的だったカルヴァンの教えに忠実で、聖書に基づく厳格な生き方を理想としていました。
清教徒革命後のイギリスは、専制君主が存在しない共和制となり、清教徒のクロムウェルが政治の実権を握りました。
ところがクロムウェルは、国民に清教徒の教えを押し付けて、禁欲的な生活を強いたため、不興を買ってしまいます。そこで議会は、清教徒革命で処刑された国王の息子・チャールズ2世を亡命先から呼び戻し、王政を復活させました。
チャールズ2世の死後は、弟でカトリック教徒のジェームズ2世の王位継承が予定されていましたが、議会内で問題となり、紛糾します。
当時、フランスなどのカトリック国では絶対王政が敷かれており、カトリックは絶対王政と同義だと、一部の人から思われていたためです。
しかし、ジェームズ2世は反対勢力を抑えることに成功し、1685年に即位を果たしました。
名誉革命と呼ばれる理由
名誉革命が「名誉」と呼ばれるのは、死傷者をほとんど出さずに革命を終えたことにあります。
ジェームズ2世は、カトリック派を全面に打ち出した専制政治を行ったため、人気は地に落ちることとなりました。
ジェームズ2世と対立していた議会の一部は、オランダへ嫁いだジェームズ2世の長女メアリーと、その夫ウィリアムを迎えることにします。
1688年にウィリアムはイギリスへ上陸し、国民の圧倒的な支持を得たため、ジェームズ2世に味方していた親戚・家臣らは寝返ることになりました。孤立したジェームズ2世は、同年フランスへ亡命し、翌年、権利章典が制定されることとなったのです。
名誉革命後のイギリスは、どうなった?
名誉革命により立憲民主主義国となったイギリスは、その後、どのような歴史をたどったのでしょうか? 名誉革命後の動きを説明しましょう。
1688年「第二次英仏百年戦争」
1688~1815年までの約130年間、イギリスはフランスと敵対し、植民地を争奪しながら戦争を繰り返しました。
イギリス・フランス間では、14~15世紀にも、両王家の対立を軸にヨーロッパ諸勢力が対立する「英仏百年戦争」がありました。これになぞらえて、17世紀の戦争は「第二次英仏百年戦争」と呼ばれています。
一連の戦争が、海外植民地の支配権をめぐって行われたことから「英仏植民地戦争」とも呼ばれています。第二次英仏百年戦争に含まれる主な戦争は、次の通りです。
・ファルツ戦争(オルレアン戦争、九年戦争、1688~1697)
・スペイン継承戦争(1701~1714)
・オーストリア継承戦争(シュレジエン戦争、ジョージ王戦争、1740~1748)
・七年戦争(1756~1763)
・アメリカ独立戦争(1776年7月4日に独立宣言、1775~1783)
・フランス革命戦争(1792~1799)
・ナポレオン戦争(1799~1815)
1763年「パリ条約」
イギリスは、第二次英仏百年戦争において、七年戦争など複数の戦争で勝利し、「パリ条約」が締結されることとなりました。
パリ条約により、イギリスはアメリカ大陸とインドにおける覇権を握り、カリブ海域と北アメリカを中核とする広大な植民地を手に入れます。
多くの海外領土を獲得したイギリスは、第一次植民地帝国を形成し、その後、世界に先駆けて「産業革命」を展開することとなるのです。
権利章典はイギリス史に残る法律
権利章典は、名誉革命の結果もたらされた、国民の権利・自由や王権に対する議会の優位を保障した法律です。立憲君主政と議会政治の慣行の礎(いしずえ)となった重要な法律で、成文憲法を持たないイギリスにおいて、現代でも、基本法の一つとして重要な役割を担っています。
一方で、名誉革命前後においても、イギリスでは王権や植民地をめぐり、多数の戦争が展開されました。このような歴史の流れを、子どもと一緒に紐解(ひもと)きながら学んでみてはいかがでしょうか。
おすすめ参考文献
小学館版 学習まんが 世界の歴史10「イギリスとフランスの革命」
中公新書 物語イギリスの歴史(下)「清教徒・名誉革命からエリザベス2世まで」
構成・文/HugKum編集部