アレクサンドロス大王とは、何をした人物?
「アレクサンドロス大王」は、古代ギリシアの国々の王の一人で、世界征服や東方遠征を行ったとされる人物です。その内容を具体的に紹介します。
ギリシアからインドに至る広大な帝国を築く
アレクサンドロス大王は、古代ギリシアの国の一つである「マケドニア」の王でした。大王の呼称は、紀元前1世紀頃からローマで使われるようになったもので、在位中の呼称は「アレクサンドロス3世」です。発音の違いから、英語圏では「アレクサンダー」「アレキサンダー」、トルコ語やアラビア語では「イスケンダル」「イスカンダル」とも呼ばれています。
アレクサンドロス大王はギリシアを統一すると、東方遠征に乗り出しました。ペルシア・エジプト・インドなど、当時、知られていた国々をほぼ制圧・支配下に置き、広大な帝国を作り上げます。
古代ギリシアでは、歴史家・ヘカタイオスの世界地図から「世界の東の端はインド」と考えられていました。インドまでを手中に収めたアレクサンドロス大王が、世界征服を成し遂げたとされたのはそのためです。
武力だけでなく、軍事的才能にも優れる
アレクサンドロス大王は、自ら戦(いくさ)の先頭に立つ武人であると同時に、戦略・戦術に長(た)けた指揮官でもありました。例えば、左手に盾を持つ重装歩兵隊に対しては、「斜線陣」を用いて右側から攻撃します。
また、重装歩兵と騎兵が協力して攻撃する「鉄床戦術」では、敵の装備や陣形によって軽装騎兵と重装騎兵を使い分けました。こうした巧みな戦術を用いて、自軍よりも兵力や装備でまさる相手に勝つこともあったとされています。
アレクサンドロス大王の生い立ち
アレクサンドロス大王は、どのようにして王としての統率力や武力、そして戦略・戦術を身につけたのでしょうか? 生い立ちから探ってみましょう。
マケドニアの王子として生まれる
アレクサンドロス大王は、紀元前356年、マケドニアの国王・フィリッポス2世の子として、首都であるペラで誕生したとされています。幼少時代から、王子として身につけておくべき読み書きなどの教養やマナー、戦闘や馬術を教え込まれました。
13歳頃から約3年間、哲学者・アリストテレスに師事します。ミエザという街に学校が作られ、アレクサンドロス大王は、後に側近となる選ばれた学友たちと一緒に入学しました。アリストテレスから教わったのは、哲学・道徳・宗教・芸術・薬の知識などです。
「トロイア戦争」を題材にした叙事詩「イーリアス」を知ったのもその頃でした。若きアレクサンドロス大王は、主人公である英雄・アキレウスに強く興味を持ったといわれています。
20歳で父の跡を継いで、国王に
紀元前336年、アレクサンドロス大王が20歳のときに、父王・フィリッポス2世が暗殺されました。アレクサンドロス大王はライバルを排除して、見事マケドニア国王の座を手に入れます。
しかし、父王の死をきっかけに、ギリシア内の近隣諸国はマケドニアに反旗を翻(ひるがえ)しました。本来なら外交で解決すべきところでしたが、アレクサンドロス大王は、武力で制圧・平定に乗り出します。近隣諸国を次々と打ち破った結果、ギリシア全土を権力下におくことに成功しました。
アレクサンドロス大王、最大の事業・東方遠征
アレクサンドロス大王はギリシアを統一すると、父・フィリッポス2世の念願でもあった「東方遠征」に乗り出しました。アレクサンドロス大王が、生涯のほとんどを費やしたとされる、東方遠征について詳しく見ていきましょう。
ギリシアを制圧、小アジアからエジプトへ
紀元前334年、アレクサンドロス大王は、3万5,000の兵を率いて東方遠征へ出発します。ダーダネルス海峡(ヨーロッパとアジアの境界とされる海峡。エーゲ海とマルマラ海をつなぐ)を越えると、アケメネス朝ペルシアとの戦いが始まりました。アレクサンドロス大王の軍勢は、グラニコス川の戦いを皮切りに、たびたび会戦し勝利します。
小アジア(現在のトルコ領で、当時はアナトリアと呼ばれる)から東へ進み続け、紀元前333年にはペルシア王・ダレイオス3世と直接対決を迎えました。「イッソスの戦い」と呼ばれたこの会戦でもアレクサンドロス大王は勝利を収め、敗北したダレイオス3世は逃亡します。
紀元前332年に、フェニキア人の都市・ティルスを攻略すると、勢いのままにエジプトへ侵攻しました。紀元前331年にはエジプトの古都・メンフィスに、初めて自らの名を冠した都市「アレクサンドリア」を建設します。
ペルシア帝国を滅ぼす
紀元前331年、「ガウガメラの戦い」において、ダレイオス3世と再戦したアレクサンドロス大王は、その戦いでも大勝しました。敗走したダレイオス3世は続く「アルベラの戦い」でも敗北し、逃亡を余儀なくされます。アレクサンドロス大王は、紀元前330年、ペルシアの都・ペルセポリスに入ると王宮も破壊しました。
同年、ダレイオス3世は、身を寄せていたペルシア東方領バクトリアの知事・ベッソスに刺殺されます。ダレイオス3世の死によって、アケメネス朝ペルシアは完全に滅亡しました。ペルシアを手に入れたアレクサンドロス大王は、宿敵・ダレイオス3世の遺体をペルセポリスに運び、丁重に葬るよう指示したとされます。
中央アジアからインドへ
紀元前330年、アレクサンドロス大王は、さらに東へ向けて新たな侵攻を開始しました。パルティア王国の都・ヘカトンピュロスから現在のアフガニスタンなどを経てバクトリア、さらに東のソグディアナまで到達します。
各地を攻略し「アレクサンドリア」を建てるなど、アレクサンドロス大王の版図(はんと)は着々と広がっていきました。バクトリア(ソグディアナ説もあり)では、有力者の娘ロクサネと結婚もしています。
アレクサンドロス大王の勢いは止まりません。紀元前327年には、約12万人の兵とともにインドへ向かい、インダス川流域の小国を次々に征服していきます。しかしインドに攻め入ったところで、それ以上の侵攻を断念しました。戦いには勝利したものの、インド王・ピロスの象(ぞう)部隊に苦戦したことや、配下のマケドニア兵たちの疲弊や不満が高まっていたことが理由とされています。
バビロンにて早すぎる死を迎える
紀元前323年、アレクサンドロス大王はバビロンに戻り、領地の統治計画や各都市の整備、アラビア半島や地中海方面への遠征計画などに忙殺されていました。アレクサンドロス大王が、突然倒れたのはその最中で、10日間高熱に苦しんだ後にこの世を去ります。まだ32歳という若さでした。
死因には熱病説や毒殺説をはじめ、東方遠征や長年の不摂生による感染症説・寄生虫症説・性病説などさまざまな説がありますが、未だに解明されていません。いずれにしても早すぎる死であったことには違いないでしょう。
当時、まだアレクサンドロス大王には子どもがなく、具体的な後継者も指名していませんでした。「最強の者が継げ」とだけ言い残したため、王座を巡って「ディアドコイ(後継者)戦争」が起こります。アレクサンドロス大王が築き上げた帝国は瓦解(がかい)し、後継者争いも紀元前276年まで続きました。
アレクサンドロス大王のトリビア
アレクサンドロス大王には、戦いの記録だけでなく、王としての功績や多くの逸話も残っています。知っておきたい主なものを見ていきましょう。
王としての功績も残る
アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシアの文化がペルシアやアジア各地にもたらされました。公用語とされた「古代ギリシア語(コイネー)」は、当初の新約聖書にも使われています。
また、大王は征服した国においても、ある程度の尊重や譲歩をする融和政策をとりました。「ヘレニズム文化」が生まれたのは、「オリエント文化」や「エジプト文化」など、征服した土地の文化とギリシア文化が融合したためです。
ヘレニズム文化の影響が見られる芸術作品として、「サモトラケのニケ」や「ミロのビーナス」があります。繊細な表情や肉感的な体の線など、前後左右どこから見ても立体的で美しいのが特徴です。
ゴルディオスの結び目
現代でも、思い切った手段をとらないと解決できないような難問を「ゴルディオスの結び目」といいますが、由来にアレクサンドロス大王の逸話があることをご存じでしょうか。
現在のトルコにあったフリギアのゴルディオンには、かつての王・ゴルディオスが結んだとされる複雑な結び目の縄がありました。あまりの難しさに、解(ほど)いた者はアジアを支配するといわれていたほどです。
その結び目を解いたのは、東方遠征途中だったアレクサンドロス大王でした。ゴルディオンを訪れ、逸話を聞くと、剣で結び目を切断したのです。既存の考えにとらわれない、柔軟な発想の持ち主であったことがうかがえます。
後年、大王は伝説の通りにアジアを制しました。
アレクサンドロス大王の足跡をたどろう
アレクサンドロス大王は、東方遠征をはじめとする数々の業績や、今に伝わる逸話を残しました。志半ばにして32歳の若さで亡くなりましたが、即位からのわずか10数年で成し遂げたことの大きさや多彩さには圧倒されます。
知れば知るほど、アレクサンドロス大王が後世に英雄として名を残したことにも納得できるはずです。アレクサンドロス大王の足跡をたどって、その業績を再確認してみましょう。
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構成・文/HugKum編集部