「天正遣欧使節」とは? その目的やメンバー、帰国後の様子などを知ろう【親子で歴史を学ぶ】

天正遣欧使節は今から400年以上も前に、日本とヨーロッパを往復した使節団です。飛行機はおろかエンジン付きの船もない時代に、彼らが命がけの航海に臨んだ理由に興味を持つ人も多いでしょう。使節派遣の目的や功績、帰国後の活動などを解説します。
<上画像:1586年にドイツのアウグスブルグで印刷された天正遣欧使節の肖像画(京都大学図書館蔵)>

天正遣欧使節とは何?

「天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)」はいつ、誰が派遣したのでしょうか。主催者やメンバーなど、使節団の概要を見ていきましょう。

日本初のヨーロッパ使節団

天正遣欧使節は、1582(天正10)年に九州の大名らが「名代(みょうだい、代理人のこと)」としてヨーロッパに派遣した使節団を指します。彼らは、日本で初めてヨーロッパに公式に派遣された使節でもありました。

そのような大役を務めたのは、「伊東マンショ」「千々石(ちぢわ)ミゲル」「原マルティノ」「中浦ジュリアン」の4人です。いずれも出発時点で10代前半の若さだったことから、「天正少年使節」や「天正遣欧少年使節」とも呼ばれています。

天正遣欧少年使節顕彰之像(長崎県大村市)。少年たちの正確な生年月日は不明。1568(永禄11)年2月生まれとされる中浦ジュリアンが最年長の14歳で、他の3人の生年は分かっていないが、原マルティノが最年少といわれる。主席正使は伊東マンショ(大友宗麟の血縁)。

天正遣欧使節派遣の経緯と目的

天正遣欧使節の派遣には、「イエズス会」によるキリスト教の布教活動が大きく関係しています。使節派遣に至るまでの経緯(いきさつ)と目的をチェックしましょう。

九州を中心にキリスト教が広まる

日本にキリスト教が伝わったのは、1549(天文18)年です。イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、布教の基礎を築きました。

1568(永禄11)年、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛し、政治の実権を握った織田信長(おだのぶなが)は、キリスト教を積極的に保護します。京都や信長の居城があった安土(あづち)には、教会や「セミナリオ(セミナリヨ)」と呼ばれる西洋学校が建てられ、信者も増えていきました。

宣教師は、スペインやポルトガルなど「南蛮(なんばん)」との貿易窓口でもあったため、鉄砲や火薬などを有利な条件で入手しようと、キリシタン大名と呼ばれ自らキリスト教に改宗する戦国大名も現れます。特に、九州では改宗が盛んとなり、キリシタン大名の一人、有馬晴信(ありまはるのぶ)が住む日野江(ひのえ)城下(現在の長崎県南島原市)にもセミナリオが建つほどでした。

有馬の「セミナリヨ跡」(長崎県南島原市)。セミナリオはイエズス会の司祭・修道士育成のための初等教育機関。当時のカトリック教会の公用語・ラテン語を、日本の古典・平家物語をテキストとして学び、音楽と体育教育も重視した。正に近代教育の先取りともいえる。

宣教師ヴァリニャーノが、使節派遣を企画

こうした状況のなか、九州を訪れた宣教師ヴァリニャーノは、日本での布教活動をさらに活性化しようと、キリスト教の本山があるローマへの使節派遣を企画します。使節派遣の目的は、主に次の二つです。

●日本の若者にヨーロッパの素晴らしさを見せ、布教活動に役立てる
●日本での布教の成果を教皇や貴族らにアピールし、活動資金を調達する

ヴァリニャーノは、大村純忠(おおむらすみただ)・大友宗麟(おおともそうりん)・有馬晴信の3人のキリシタン大名に、ローマ法王へ名代を送ることをすすめ、使節派遣が決まるのです。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ Wikimedia Commons(PD)

選ばれたのは、セミナリオに通うエリート少年

名代の4人は、日野江城下のセミナリオに通う生徒から選ばれました。セミナリオは、キリシタン大名やその縁者の子どもだけが入学を許される学校です。

生徒は、全員カトリックの洗礼を受けており、外国人教師の下でラテン語や天文学、西洋楽器の演奏など、当時としては最先端の学問を学んでいました。4人の少年は、単にキリシタンであるだけでなく、身分が高く、しっかりとした教育を受けたエリートでもあったのです。

天正遣欧使節の功績

少年たちは、無事にヨーロッパにたどり着き、目的を果たして帰国します。天正遣欧使節の主な功績を見ていきましょう。

ヨーロッパに日本をアピール

1582(天正10)年2月、4人の少年はヴァリニャーノや神父メスキータ・通訳・従者などとともに長崎を出発します。ヴァリニャーノは、インドのゴアで所用のため離脱しますが、残りのメンバーは航海を続け、1584(天正12)年8月にポルトガルの首都リスボンに到着しました。

出発から2年半もの大航海で、途中で大きな嵐に見舞われるなど、苦労も多かったようです。しかしその甲斐(かい)あって、訪問した各都市で少年たちは大いに歓迎されます。

スペイン国王フェリペ2世や、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見(えっけん)も大成功に終わり、ヨーロッパの人々に存分に日本をアピールしました。

天正遣欧使節航路図。主な寄港地や宿泊地は32カ所を数える。リスボンでは、サン・ロッケ教会が宿舎となった。スペイン経由でイタリアへ入った一行は、ピサでは斜塔や大聖堂をはじめとするドゥオモ広場を訪れ、ローマでは教皇に謁見しローマ市民権を与えられている。

西洋の技術や文化を持ち帰る

天正遣欧使節のもう一つの功績は、西洋の技術や文化を日本にもたらしたことです。印刷機・楽器・観測器・海図など、さまざまな道具を土産として持ち帰ったほか、活版印刷の技術を習得した者もいました。持ち帰った道具の中でも、特に有名なものが「グーテンベルク印刷機」です。

キリスト教に限らず、宗教を広めるには経典や教科書などの書物が欠かせません。そのため少年たちには、印刷機の入手と技術の習得も期待されていたのです。グーテンベルク印刷機は、彼らの帰国以降、主に長崎に置かれ、20年以上書物の出版に使われました。

伊東マンショとグレゴリウス13世の謁見の場面(ADC 文化通信) http://adcculture.com/journalist/shiratori-43/ , Pontifical Gregorian University

天正遣欧使節のその後

役目を終えた天正遣欧使節は、1586(天正14)年2月にリスボンを出発し、1590(天正18)年に長崎に到着します。しかし日本では、キリスト教を取り巻く環境が大きく変化していました。帰国前後の日本での出来事と、少年たちがたどった運命を紹介します。

加速する禁教政策

天正遣欧使節が長崎を出発したのと同じ年に「本能寺(ほんのうじ)の変」が起こり、キリスト教を保護していた織田信長が亡くなります。信長の後継者となった豊臣秀吉(とよとみひでよし)はキリスト教を敵視し、1587(天正15)年には「伴天連(ばてれん)追放令」を出して、宣教師に国外退去を迫りました。

江戸時代に入ると、キリスト教禁止の流れはさらに加速します。1612(慶長17)年には徳川幕府が「禁教令」を出し、本格的にキリスト教の弾圧が始まりました。当初は、幕府直轄(ちょっかつ)領のみに適用された禁教令は、翌年には全国へと広がり、1873(明治6)年まで続くのです。

少年4人がたどった運命

キリスト教への逆風が強まるなか、伊東マンショ・原マルティノ・中浦ジュリアンの3人は司祭(しさい)となり、なんとか布教活動を続けます。しかしマンショは若くして病死(1612)、ジュリアンは潜伏しているところを捕らえられ、処刑されてしまいました(1633)。

語学が堪能(たんのう)だったマルティノは、布教以外に、翻訳や出版の分野でも活躍します。禁教令が出た後はマカオに移住し、日本に戻ることはありませんでした(1629年死去)。

千々石ミゲルは棄教して「千々石清左衛門」と名乗り、大村藩に仕えています。しかし、裏切り者としてキリシタンから命を狙われたり、仏教徒から異端者扱いされたりと、散々な目にあったようです。ミゲルは、ヨーロッパの奴隷(どれい)制度を見て、キリスト教やイエズス会に不信感を持ったといわれていますが、定かではありません。

左上/中浦ジュリアン、中央/メスキータ神父、右上/伊東マンショ、左下/原マルティノ、右下/千々石ミゲル German ‘newspaper’ Newe Zeyttung – Kyoto University Rare Materials Digital Archive

ヨーロッパに、日本を知らしめた天正遣欧使節

徹底的な禁教政策により、日本では天正遣欧使節の存在は忘れ去られてしまいます。むしろ彼らをよく覚えていたのは、訪問先のヨーロッパの国々でした。イタリアでは伊東マンショの肖像画が残されていたり、少年たちがローマ教皇に謁見する様子を描いた絵が見つかったりしています。

明治政府が視察のためにヨーロッパを訪問したときに、自分たちが日本初の公式使節ではなかったことを知り驚いた、とも伝わります。大きな夢と希望を抱いて旅立ったエリート少年の足跡を、子どもと一緒に地図などを使ってたどってみるのもよい勉強になるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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