平安時代の役職「蔵人頭」とは?
「蔵人頭(くろうどのとう)」とは、平安時代に置かれていた役職のことです。蔵人頭は、どのような役職なのか、実際に務めた人物と合わせて紹介します。
天皇直属の秘書長官
蔵人頭とは、「蔵人所(くろうどどころ)」と呼ばれる役所の長官にあたる役職です。蔵人所は、810(大同5)年に嵯峨(さが)天皇によって設立され、宮中や天皇の機密文書を扱っていました。
摂関(せっかん)との取り次ぎなど、天皇の秘書のような職務をこなしていたのが特徴です。天皇を支える重要な役職として、蔵人所はその後の時代にも常設されました。
蔵人頭は、殿上人(てんじょうびと)をまとめる立ち位置だったことから、「貫首(かんじゅ)」という別名を持っていました。殿上人とは、天皇が過ごしていた「清涼殿(せいりょうでん)」に上がることを許可された人を指しています。
蔵人頭に任命された人
蔵人頭の定員は二人とされ、事務職を担当する「弁官(べんかん)」、近衛府(このえふ)に務める武官「近衛中将」から一人ずつ選ばれました。この二人はそれぞれ、頭弁(とうのべん)、頭中将(とうのちゅうじょう)と呼ばれます。
初代蔵人頭には、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)が任じられました。学問の神様として知られる菅原道真(すがわらのみちざね)も、後世に蔵人頭を務めた人物の一人です。
後に左大臣にまで上り詰めた冬嗣は、藤原氏が摂関政治を始める礎になったといわれる人物です。野足は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)とともに蝦夷(えみし)を征伐した武官として知られています。
蔵人頭が設けられた理由・時代背景
嵯峨天皇が蔵人所を設置した背景には、「薬子(くすこ)の変」(810)という出来事がありました。蔵人頭が生まれた理由を、歴史の流れから見ていきましょう。
嵯峨天皇と平城上皇の対立
平城京から平安京への遷都が行われた後、平城(へいぜい)天皇は806(大同元)年に即位しました。その後、病気になったため、わずか3年で弟の嵯峨天皇に譲位し、上皇になります。
譲位後に、体調が回復した平城上皇は、再び政治に介入しようと試みます。そうして810年9月に起こったのが、平城京への遷都を目的とした「薬子の変」です。
薬子の変の由来となった藤原薬子とその兄・仲成(なかなり)は、平城天皇に取り入って権力を得たといわれています。薬子は平城天皇にとって后(きさき)の母親にあたりますが、平城天皇と愛人関係にあったとされる人物です。
新たに天皇の命を伝えるルートを確立
薬子は当時、天皇へ取り次ぎや天皇の命(めい)を伝える「尚侍(ないしのかみ)」という役職に就いていました。これは、父・桓武(かんむ)天皇が亡くなり、平城天皇が天皇の座に就任した際、桓武天皇によって追放されていた薬子を呼び戻し、地位を与えたのです。
嵯峨天皇に譲位した後も薬子は尚侍であったため、平城上皇は、その後も臣下に命令を出すことが可能でした。嵯峨天皇は、この状況を解決するために、新たに蔵人所を設置し、蔵人頭という役職を作ったのです。
天皇の秘書的な存在である蔵人頭は、尚侍に代わって天皇の命令を臣下に伝える役職になりました。つまり、蔵人頭が誕生したのは、薬子と平城上皇に対抗するためでもあったのです。
薬子の変を収束させる
嵯峨天皇が平安京で、平城上皇は平城京で命令を出していたことで、二つの朝廷が存在する「二所朝廷」の状態が続きました。そして810年に、平城上皇が平城京への遷都を宣言し、薬子の変が起こります。
嵯峨天皇は、牽制(けんせい)のため、征夷(せいい)大将軍の坂上田村麻呂や、蔵人頭だった藤原冬嗣を平城京に派遣しました。薬子の兄・仲成を捕まえた嵯峨天皇は、薬子から尚侍の役職を剝奪(はくだつ)します。
命令が出せなくなった平城上皇は挙兵を試みますが、東国(とうごく)の道は嵯峨天皇によって封鎖されていました。こうして失敗を悟った平城上皇は出家し、薬子は自殺を選んだのです。
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蔵人頭を作った嵯峨天皇は、何をした人?
蔵人所を設置し、蔵人頭を作った嵯峨天皇は、薬子の変を解決したほかにもさまざまな業績を残しています。嵯峨天皇とは、どのような人物なのかをチェックしましょう。
検非違使設置・六衛府の改制などを行う
嵯峨天皇の業績として有名なのが、「検非違使(けびいし)」を設置したことです。検非違使は、現在でいう警察のような業務を担当した、治安維持のための組織とされています。
嵯峨天皇は、蔵人頭や検非違使を新たに設置することで、「六衛府(ろくえふ)」の体制を改めました。六衛府とは、近衛や兵衛(ひょうえ)など、平安時代に警備のために置かれていた機関の総称です。
また、当時の法律であった律令を補完する格式を編纂(へんさん)したこともポイントです。嵯峨天皇は「弘仁格式(こうにんきゃくしき)」を定め、律令をどのように施行するかを示しました。
文化人としても知られる
嵯峨天皇は、漢詩文に明るい文化人でもありました。「凌雲集」「文華秀麗集」などの漢詩集を編纂したり、集まって詩を詠み合う詩宴を開いたりと、文人としての側面もあった人物です。
書も得意としており、後に空海(くうかい)らと並んで「三筆(さんぴつ)」ともいわれました。唐風の文化に明るかったことから、衣類などに唐の文化を取り入れたことでも有名です。
さらに、宮廷に新たな年中行事や儀礼を設けています。賀茂(かも)神社に仕える「賀茂斎院(かものさいいん)」や、正月7日の行事である「白馬節会(あおうまのせちえ)」などが代表的です。
蔵人頭は、天皇直属の秘書長官
蔵人頭とは、嵯峨天皇の時代に設置された蔵人所の長官です。宮中の取り次ぎや機密文書を扱う蔵人頭は、秘書的な存在として天皇を近くでサポートしました。
蔵人頭という役職が新たに作られたのは、嵯峨天皇と平城上皇との対立が原因です。平城上皇が平城京から命令を出すのに対抗するため、蔵人頭は天皇からの命令を伝える役割として活躍しました。
嵯峨天皇は、蔵人頭だけでなく検非違使などの役職を新設したことでも有名です。文化人としても知られる嵯峨天皇は、宮中の行事や政治体制を改革した人物なので、あわせて覚えておくとよいでしょう。
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構成・文/HugKum編集部