「勘解由使」ってどんな役職? 設置された理由や関連する政策を解説【親子で歴史を学ぶ】

「勘解由使」とは、桓武天皇の時代に設置された役職です。勘解由使が置かれた背景には、国司の不正によって地方の政治が乱れていたことが挙げられます。新たに勘解由使が設置された理由や、勘解由使がどのような役職だったのかをチェックしていきましょう。

平安時代の役職「勘解由使」とは、何?

「勘解由使(かげゆし、かんげゆし)」とは、平安時代に桓武(かんむ)天皇が設置した役職です。勘解由使が、どのような役割を持っていたのかを解説します。

平安神宮「大極殿(外拝殿、重要文化財)」(京都市左京区)。1895(明治28)年、平安遷都1100年を記念して、桓武天皇を祀る神社として創建された。平安京の大内裏(だいだいり)正庁「朝堂院(ちょうどういん)」を模して、実物の8分の5の規模で復元されている。

官吏交代を監視する役職

勘解由使は、平安時代に誕生した役職で、国司(こくし)などが交代する際の監視が主な役割です。国司を中心に、官吏(かんり)が引き継ぎをするタイミングで、トラブルが起こらないよう監査を行いました。

平安時代の役人であった官吏の中には、給料を増やそうと不正を行う者も珍しくありませんでした。そのため、厳しいチェックを行う勘解由使が「令外官(りょうげのかん)」として設置されたのです。

令外官とは、当時の法律である律令に存在しない官職のことです。桓武天皇によって新設された役職である勘解由使は、令外官に当てはまります。

解由状について

国司が交代を行う際に、新任の国司が前任者に渡す書類を「解由状(げゆじょう)」といいます。平安時代には事務を引き継ぐ手続きのことを解由といい、その証明書である解由状が必要でした。

勘解由使が交代時に監査を行い、問題がないと認められた場合は、解由状が交付されます。前任者に問題があると判断されたときに発行される文書が「不与解由状(ふよげゆじょう)」です。

不正があったり交代に時間がかかったりと、平安時代には解由状をめぐるトラブルが多発しました。桓武天皇は勘解由使を設置することで、国司の交代を速やかに完了させようとしたのです。

勘解由使が設けられた主な理由

勘解由使という役職が新たに作られた理由には、どんなものがあったのでしょうか。勘解由使が置かれた目的や、背景について見ていきましょう。

国司による地方政治の腐敗

桓武天皇が勘解由使を設置した背景には、国司の不正が広まっていたことがありました。中央から派遣された国司は、地方役人として政治や軍事などの職務を担当する役職です。

税の徴収を行っていた国司の中には、民衆から過剰な税を取るなどの不正を行う者が存在しました。そのため、民衆が経済的に困窮する地方も多かったのです。

桓武天皇は、律令制を立て直すために、地方政治の改善に取り組みました。勘解由使を設置したのも、不正が多かった地方の状況を改善する政策の一つです。

『桓武天皇像』延暦寺 蔵 – Wikimedia Commons(PD)

遷都と蝦夷討伐のための財源確保

桓武天皇が、国司の不正を取り締まったのは、財源を確保するためでもありました。桓武天皇の時代(在位781~806)には、長岡京や平安京への遷都(せんと)や蝦夷(えみし)の討伐を行うための費用が必要だったのです。

桓武天皇は、縁起のよい場所である平安京への遷都を計画していました。同時に蝦夷との戦いを続けていたため、朝廷の経済状況は次第に圧迫されていきます。

805(延暦24)年に「徳政相論(とくせいそうろん)」と呼ばれる議論が起こり、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の進言で、都の造営と蝦夷討伐は中止されました。緒嗣は、後に「日本後紀」の編者になったことでも有名です。

勘解由使設置以外で、桓武天皇が行った政策

桓武天皇は勘解由使を設置しただけでなく、二度の遷都を行ったことでも有名です。桓武天皇の時代になされた事業や、主な政策を紹介します。

長岡京・平安京への遷都

桓武天皇は即位から3年後の784(延暦3)年に、「平城京」から「長岡京」への遷都を行いました。しかし遷都してから、疫病の流行や暗殺など、不幸な出来事が相次いで発生します。

長岡京「大極殿跡」(京都府向日[むこう]市鶏冠井[かいで]町)。桓武天皇は平城京から北へ約40㎞の地に遷都。長岡京近くに桂川・宇治川などが淀川となる合流点があり、船での物流拠点が存在したことも遷都の要因だった。大極殿跡は、1962(昭和37)年の発見。

そのため桓武天皇は、縁起のよい場所とされる「平安京」に二度目の遷都を計画しました。長岡京は、暗殺事件の犯人とされて亡くなった早良親王(さわらしんのう)によって呪(のろ)われていると考えられたのです。

桓武天皇が遷都を試みたのには、二つ理由があります。一つ目は、新しい時代の政治をアピールするためです。天智(てんじ)天皇の孫である桓武天皇は、それまでの天武(てんむ)天皇系の血族との違いを主張しようとしました。

二つ目は、寺院の影響力が強かった平城京から離れるためです。桓武天皇は仏教勢力が政治に口出しすることに不満を持っており、平安京には二つの寺しか造らせないなど、勢力の排除を徹底しました。

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国内を治めるための蝦夷討伐

東北地方で強い勢力を持っていた蝦夷は、朝廷には従いませんでした。そこで桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷(せいい)大将軍に任じ、蝦夷討伐のために派遣したのです。

蝦夷討伐は、複数回にわたって行われており、田村麻呂は何度も将軍に命じられる中心的人物でした。第三次討伐で、朝廷に降伏した蝦夷の族長・阿弖流為(あてるい)を助けようと嘆願したエピソードも知られています(802)。

そもそも蝦夷討伐は、朝廷に服従しない東北地方を、律令制に組み込むための計画でした。田村麻呂たちが蝦夷と戦い勝利したことで、朝廷が支配する地域が広がったのです。

蝦夷の族長・阿弖流為と副官・母禮(もれ)の石碑(京都市東山区)。平安建都1200年を記念して1994(平成6)年、田村麻呂が建立した清水寺境内に造られた。阿弖流為は河内国で処刑された際、「田村麻呂に伝えてくれ、もう一度会いたかったと」と話したという。

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律令制度再建を目指す

桓武天皇は、律令に基づいた政治体制を立て直すため地方政治を改善しました。民衆が厳しい税や労働に苦しんでいたことから、負担を減らして律令制の再建を試みたのです。

桓武天皇は、10日間の警備を義務づける軍団を廃止し、「健児(こんでい)の制」を定めました。健児の制とは、地方を治める豪族であった郡司の子どもを兵士にする制度です。

また、朝廷が口分田(くぶんでん)を与える「班田収受(はんでんしゅうじゅ)」の期限を、6年から12年に延長しました。桓武天皇は、律令制を維持しようとさまざまな改革に取り組んだのです。

勘解由使ができた理由を理解しよう

国司など官吏の交代時に監査を行う勘解由使は、桓武天皇の時代に新設された役職です。余分な税を取り立てたり交代に時間をかけたりと、国司による不正が数多く存在したことが背景といわれています。

桓武天皇の時代には、長岡京・平安京への遷都や蝦夷討伐などで多くの費用が必要でした。勘解由使が置かれたのは、不正を未然に防ぐだけでなく財源を確保する目的もあったと考えられます。

勘解由使が、不正がないかをチェックすることで、国司の交代をスムーズに行うことを可能にしました。地方政治の見直しを図った桓武天皇にとって、国司を監視する勘解由使は重要な存在だったといえます。

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構成・文/HugKum編集部

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