『大日本史』って何?
まずは『大日本史』について、基本的な情報を解説していきましょう。
江戸時代から編さんがはじまった歴史書
『大日本史』の編さんは、江戸時代の1657年にはじまりました。完成したのは、明治時代の1906年です。なんと250年もの月日をかけて編さんされた、巨大な歴史書なのです。
水戸藩主・徳川光圀の野心的な事業
『大日本史』は、水戸藩主・徳川光圀の命によってはじめられたものです。この編さんは、藩の修史事業として行われました。
かつて修史事業は幕府だけで行われていたものでしたが、江戸時代には藩でも修史事業が行われていたのです。『大日本史』の編さんは、その代表的なものといわれています。
大日本史の編さん過程
『大日本史』はどのようにして編さんされたのでしょうか。その過程を見ていきましょう。
彰考館の設立
『大日本史』を編さんするため、明暦3年(1657)に設けられたのが史局です。史局は、駒込にあった水戸藩の別邸に設けられます。
のちに小石川に史局が移転し、史局は「彰考館(しょうこうかん)」と名づけられます。彰考館には全国から約130人もの学者が集められ、本格的に編さんがスタートします。
光圀の代では完成しなかった
『大日本史』の編さんは、光圀の代では完成できませんでした。そのため、水戸藩の藩業として受け継がれていきます。
『大日本史』の編さんに時間がかかったのは、膨大な史料の収集、記述の内容の確認、いくどにもわたる編集方針をめぐる論争などが原因です。
完成したのは明治時代
天保5年(1720年)に、『大日本史』のうちの本紀と列伝にあたる250巻を徳川幕府へ献上します。1809年(文化6年)には、本紀と列伝の版本を刊行。
志と表の編纂が終わり、完全な歴史書としての体裁が整えられたのは明治39年(1906年)です。編さん開始から実に250年もの月日を要し、ようやく完成したのです。
『大日本史』の内容や構造は?
それでは、『大日本史』の内容と構造について解説していきましょう。
紀伝体形式の採用
『大日本史』は、紀伝体(きでんたい)形式でまとめられているのが大きな特徴です。紀伝体形式とは、個人の伝記を連ねて歴史を表す形式のことをいいます。これは中国前漢の歴史家・司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』にはじまったもので、長らく中国正史の体裁として基準となっていました。
『大日本史』以前の「日本書紀」をはじめとする歴史書は、できごとを年代順に記述する「編年体(へんねんたい)」で書かれていました。しかし光圀は『大日本史』を記すにあたり、あえて紀伝体を採用したのだそうです。これには、光圀が『史記』に感銘をうけたことが影響しているのでしょう。
なお紀伝体では、それぞれの出来事や人物、時代の雰囲気を感じ取りやすいのが特徴といわれています。
本紀、列伝、志、表の4つで構成
『大日本史』は「本紀」「列伝」「志」「表」から構成されています。
それぞれに書かれていた内容は次のとおりです。
「本紀」:皇帝や天皇の年代記のこと
「列伝」:臣下の伝記のこと
「志」:社会のさまざまな分野の歴史のこと
「表」:年表や系譜などのこと
総巻数
『大日本史』は、圧倒的な数の巻があるのも特徴です。「本紀」は73巻、「列伝」は170巻、「志・表」合わせて154巻で、全397巻226冊です。それに加えて「目録」が5巻あります。すべて合わせると402巻もの巻数になります。
具体的にはどんな歴史が書かれているの?
『大日本史』には、初代天皇である「神武天皇(じんむてんのう)」の時代から、南北朝時代の「後小松天皇(ごこまつてんのう)」までの100代の歴史がまとめられています。
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『大日本史』の3つの特色
『大日本史』には3つの特色があります。見ていきましょう。
特色1:あらゆるところから史料を集めた
『大日本史』は、膨大な史料によってまとめられています。その史料は京都、奈良、吉野、紀州方面をはじめ、中国、九州、北陸の一部、東北地方などに館員を派遣して集められたのだそうです。
特色2:出典を明記した
「六国史(りっこくし)」以外の史料については、出典を明記しているのも特色のひとつです。
特色3:南朝を正統とした
『大日本史』には、以下の三大特筆があります。
①神功皇后を后妃に列する
②大友皇子を本紀に掲げ、天皇としてこれを遇する
③南朝を正統とし、三種の神器が北朝の後小松天皇に渡された時をもって皇統を北朝に帰する
③の「南朝を正統とする」ことは、従来の常識を破ることでした。史員の反対意見があったものの、光圀は自説を貫いたといわれています。
『大日本史』の文化的価値とその後の評価
『大日本史』は、どのような価値がある歴史書なのでしょうか。また、現代の評価についてもご紹介します。
日本歴史学への貢献
『大日本史』が編さんされたころには、日本史は「日本書紀」「続日本紀」「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」の六国史しかありませんでした。
これらに書かれている歴史は、飛鳥時代から平安時代前期までで、それ以降の歴史書はなかったのです。平安時代後期以降の歴史書が作られなかった理由は、正統な国史をまとめることが困難だったことが考えられます。
『大日本史』には、平安時代後期以降の歴史もふくめた日本の正しい歴史を記録すること、正しいものと間違っているものを分けることという役割があったといわれています。
水戸学とその後の日本思想に与えた影響
『大日本史』の編さんによって発生したのが「水戸学」です。水戸学とは水戸藩で盛んになった学派で、儒教思想を中心とした国家意識を結合させ、尊王論を発展させました。
水戸学には前期と後期があり、徳川光圀による『大日本史』編さん事業に従事した学者たちの間で確立した学派が「前期水戸学」、水戸藩9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)による藩政改革をきっかけとして大成された学派を「後期水戸学」といいます。
この水戸学は、幕末の尊皇攘夷運動や、明治時代から第二次世界大戦時まで続いた天皇制国家の思想に大きな影響を与えたのだそうです。
現代における『大日本史』の評価は?
近代の歴史研究においては「歴史的資料価値はない」といわれてきました。しかし、水戸藩が『大日本史』を編纂するために集めた資料や逸話や説話は、とても貴重で価値あるものです。また紀伝体で書かれている日本史は『大日本史』がほとんど日本唯一といえます。
こうしたことから、『大日本史』の評価は日本史を語るにあたり欠かせないものとして見直されています。なお、哲学者で文学博士の西田幾多郎も、自著で『大日本史』を高く評価しています。
徳川光圀の思いが存分に込められた歴史書『大日本史』
『大日本史』は、日本がどのように動いたのか、その歴史を知ることができる貴重な書物です。光圀の思想が盛り込まれており、その思想はのちに水戸学へとつながります。
『大日本史』についてもっと詳しく知りたい人は、茨城県水戸市を訪れてみてはいかがでしょうか。ここには『大日本史』が完成した地や水戸城跡、「水戸学の道」などがあります。徳川の歴史や光圀の思想、水戸学について触れることができるでしょう。
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文・構成/HugKum編集部