「後三年の合戦(役)」とはどんな戦い?「前九年」からの流れと後の展開までを解説【親子で歴史を学ぶ】

「後三年の合戦」は、今から900年以上も前に起こった出来事です。「前九年の合戦」とは時期や争いの舞台が近いため、セットで覚えている人も多いかもしれません。合戦が起こった背景や関係人物、その後の展開を分かりやすく解説します。
<上画像・『後三年合戦絵詞』より Wikimedia Commons(PD)>

「後三年の合戦」とは?

「後三年(ごさんねん)の合戦」とは、どのような出来事だったのでしょうか。なぜそう呼ばれているのかも、あわせて見ていきましょう。

平安時代後期に、東北で起こった戦い

「後三年の合戦」は、平安時代の終わり頃に、現在の秋田県で起こった内乱を指します。「後三年の役」とも呼ばれます。

1083(永保3)年に、奥羽(おうう、現在の東北地方)を支配していた清原(きよはら)氏で内紛が起こります。そこに朝廷から派遣された地方役人が介入して、大きな事件に発展しました。

もともとは「永保(えいほう)の戦い」などと呼ばれていましたが、鎌倉時代の後期頃から「後三年」との呼び方が定着します。実は、この出来事が起こる少し前に、同じ東北で「十二年合戦」がありました。

しかし十二年合戦が、実際には9年間の争いだったことから、永保の戦いと合わせての12年と誤認されていたと分かり、それぞれ「前九年(ぜんくねん)」「後三年」と呼ぶようになったと考えられています。

後三年の合戦が起こるまでの出来事

後三年の合戦は、かつて清原氏が関わった出来事が遠因となっています。当時の一族の状況をチェックしましょう。

前九年の合戦

清原氏は、もともと出羽国(でわのくに:現在の秋田県と山形県)を支配する豪族でした。このとき、陸奥国(むつのくに:東北地方の太平洋側)を支配していたのは、安倍(あべ)氏です。

1051(永承6)~1062(康平5)年にかけて、朝廷に従わない安倍氏と陸奥守(むつのかみ:陸奥の国司)との間で「前九年の合戦」が起こりました。

戦いの終盤、清原氏当主・光頼(みつより)の弟・武則(たけのり)は陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし)に加勢し、朝廷側の勝利に貢献します。武則の戦功によって、清原氏は安倍氏の領地を受け継ぎ、奥羽一帯を支配するようになりました。

さらには、合戦で亡くなった安倍軍の武将・藤原経清(ふじわらのつねきよ)の妻を、武則の息子・武貞(たけさだ)の後妻に迎えます。彼女は経清との間に生まれた幼い男児を連れて、武貞に嫁ぎました。

関係者系図

清原氏の内部分裂

やがて、武貞の嫡男・真衡(さねひら)が当主になると、一族の中で対立する者が現れます。武貞には、ほかにも後妻の連れ子・清衡(きよひら)と、同じ後妻との間に生まれた家衡(いえひら)の二人の息子がいて、真衡との仲は険悪でした。

また、真衡は独裁的な体制を敷こうとしたため、叔父(おじ)の吉彦秀武(きみこのひでたけ)とも関係が悪化します。秀武は、前九年の合戦で活躍した武則の娘婿です。自身も参戦しており、一族の長老のような立場でした。

決して一枚岩ではなかった清原氏は、やがて内部分裂を起こし、後三年の合戦へと発展していくのです。

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後三年の合戦の流れ

後三年の合戦は、大きく二つの段階に分けられます。それぞれの争いについて、原因と流れを見ていきましょう。

真衡と家衡・清衡の対立

1083(永保3)年、清原真衡の養子・成衡(なりひら)が結婚します。吉彦秀武は祝いの品を持ち、真衡の館(やかた)を訪れましたが、なんと真衡は囲碁(いご)に熱中するあまり、叔父の来訪に気付きません。

怒った秀武はそのまま帰宅し、真衡も秀武の態度に腹を立てます。真衡は、秀武を討ち取ろうと考えて挙兵、秀武は真衡と仲の悪い清衡・家衡兄弟とともに反撃に出ました。

ここで、前九年の合戦に勝利した源頼義の息子・義家(よしいえ)が登場します。彼はちょうど、父と同じ陸奥守に着任したばかりでした。真衡は義家を接待するなどして味方につけ、清衡・家衡を降伏させます。

源義家の像(東京都府中市)。この若き八幡太郎義家の銅像が立つ「馬場大門ケヤキ並木」は、前九年の合戦の帰途、戦勝報祭として、頼義・義家親子がケヤキの苗木1000本を武蔵国の国府である府中の大國魂(おおくにたま)神社に奉納したことに始まるという。

家衡と清衡の争いへ

勝利を手にした真衡でしたが、行軍中に突然亡くなってしまいます。彼の所領は義家によって、家衡と清衡に分配されました。しかし分配の仕方が不公平だとして、家衡は不満を募らせます。

1086(応徳3)年、家衡は清衡を亡き者にしようと企て、館を襲撃しました。このとき清衡は脱出に成功したものの、妻子は殺害されてしまいます。窮地に陥った清衡は秀武や義家に加勢を求め、反撃に出ました。

家衡は、もう一人の叔父・武衡(たけひら)を味方につけ対抗します。武衡の勧めで籠城(ろうじょう)作戦を続ける家衡に、清衡と義家は苦戦を強いられますが、最後は秀武が提案した兵糧(ひょうろう)攻めを実行、多くの犠牲を出しながらようやく戦いに勝利したのです。

後三年の合戦がもたらしたもの

争いを制した清原清衡と源義家は、その後、どうなったのでしょうか。合戦の後の歴史に与えた影響も解説します。

奥州藤原氏が誕生

清原氏の血を引く家衡と武衡が討死したことで、連れ子だった清衡がすべての所領を受け継ぎます。清衡はその後、実父の姓「藤原氏」を名乗り、館を岩手県の平泉(ひらいずみ)に移して「奥州藤原氏」の祖となりました。

悲惨な戦いを経験した清衡が、平和な世を願って建立したのが、世界文化遺産に登録されている「中尊寺(ちゅうそんじ)」です。清衡の事業は平泉文化の基礎となり、奥州藤原氏も四代にわたって栄えました。

なお奥州藤原氏は、後に義家の子孫で鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)に攻められ滅亡します。

「中尊寺金色堂(こんじきどう)」覆堂(岩手県西磐井郡平泉町)。1124(天治元)年に清衡が建立したもので「国宝」。その名のごとく、堂は内外ともに総金箔貼りで扉・壁・軒・縁・床面に至るまで「金」だ。現在、堂はガラスケースに納められて、この覆堂内にある。

東国で源氏の権威が高まる

一方の義家は、朝廷から清原氏の内紛に勝手に介入したとみなされます。そのため、争いを平定した功績は認められず、恩賞をもらえなかったばかりか、陸奥守も解任されてしまったのです。

しかし義家は私財を使って、合戦に動員した東国(とうごく)の武将に恩賞を与えました。身を削ってまで働きに報いようとしてくれる義家に、武将らは恩義を感じます。

彼らは義家を信頼し、東国における源氏の権威は高まりました。頼朝が関東で挙兵できたのも、義家の行動のおかげといわれています。

平泉文化や鎌倉幕府につながる後三年の合戦

後三年の合戦自体は、単なる豪族の内輪もめに過ぎないかもしれません。とはいえ、前九年の合戦で敗れた一族の妻子が関わっていたり、勝者の子孫同士が後の世で戦うことになったりと、興味深いエピソードもたくさんあります。

平泉文化や鎌倉幕府といった、有名な事柄につながっているのも大きな特徴です。後三年の合戦を通して、親子で歴史の不思議さを実感してみましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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