「豊臣秀長」はどんな人物だった? 兄を支え続けた生涯や逸話について詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】

豊臣秀長は、豊臣秀吉の天下統一に大きな役割を果たした人物です。彼の功績を知ることで、秀吉の天下統一までの道のりを、より深く理解できるでしょう。豊臣秀長とはどのような人物だったのか、生涯や逸話を含め詳しく解説します。
<上画像:豊臣秀長の居城として知られる郡山城(奈良県大和郡山市) 

豊臣秀長とは

豊臣秀長(とよとみひでなが)は、名前からもわかる通り、天下人・豊臣秀吉と関わりの深い人物です。まずは二人がどのような関係だったのかをチェックしましょう。

「豊臣秀吉」の実の弟

秀長は、有名な戦国武将・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の3歳違いの弟です。秀吉は農家に生まれたので、一般的な武家のように代々仕える家臣がいませんでした。実の弟の秀長は、信頼できる身内であり、秀吉にとって貴重な協力者だったといえます。

また秀長は、2026年から放映予定の、NHK大河ドラマの主人公に決定しています。主役は仲野太賀(なかのたいが)、脚本は八津弘幸(やつひろゆき)です。タイトルに「豊臣兄弟!」とあるように、兄の秀吉とともに成り上がる秀長の活躍を描きます。

出典:主演・仲野太賀「豊臣秀長を最高におもしろく最高に魅力的に演じたい」 大河ドラマ 豊臣兄弟!

豊臣秀長[奈良県大和郡山市春岳院所蔵品]。Wikimedia Commons(PD)

豊臣秀吉は何を成し遂げた?

秀長の実兄・豊臣秀吉は戦国武将の1人で、当時の社会では考えられないような、大出世を成し遂げた人物として知られています。農家に生まれた秀吉は、武士になるために家を出て、最終的に織田信長(おだのぶなが)に仕えました。

やがて信長に重用され、武将として活躍するようになります。信長が亡くなった「本能寺の変」の後も勢力を伸ばし、1585(天正13)年に関白、1586(天正14)年には太政大臣(だじょうだいじん)となりました。

豊臣姓を名乗るようになったのも、このころです。1590(天正18)年に、関東を支配していた小田原北条氏を破って、ついに天下統一を果たします。

▼豊臣秀吉についてはこちら

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豊臣秀長の生涯

1585~1591年頃まで秀長の居城だった郡山城跡(奈良県大和郡山市)

豊臣秀長の人生は、兄・豊臣秀吉を支え続けることに終始しました。農民として生活していた秀長にとって、武士として活躍するのは簡単ではなかったでしょう。秀長の生涯を時系列で紹介します。

兄の勧めにより武士の道へ

秀長は、1540年(天文9)年に、尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で誕生しました。はっきりとしたことはわかっていませんが、秀長は母・仲(なか)の再婚相手の竹阿弥(ちくあみ)の子どもという説があります。

兄の秀吉は、秀長が幼い頃に家を出ており、兄弟はしばらくの間疎遠でした。しかし、1561(永禄4)年ごろに秀吉が帰還したことで、転機が訪れます。

当時農民として平穏に暮らしていましたが、兄の熱心な勧めで武士の道を歩み始めるのです。秀吉の存在がなければ、秀長が武士になることはなかったかもしれません。

秀吉の出世を支える存在へ

武士になった秀長は、秀吉の手が届かない場所を補うように、政務や軍事を助けました。例えば、織田信長に従って出陣する秀吉の代わりに、城の留守居役や城代を任されています。

また、秀長は謙虚な性格を生かして秀吉と周囲の武将の間を取り持ち、秀吉の協力者を増やしていきました。

だんだん戦にも参加するようになり、1570(元亀元)年の「金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)」では、秀吉を助けて奮戦しています。

この戦いで、危険な撤退戦の最後尾を務めた秀吉は、信長の信頼を得て、さらに出世することになります。

武将としての活躍と最期

1577(天正5)年、信長の中国攻めの最中に、秀長は「竹田城」(兵庫県朝来市)を攻め落とし、秀吉から但馬国(現在の兵庫県北部)の統治を任されました。その後も多くの戦で武功を挙げ、「出石城(いずしじょう)」(兵庫県豊岡市)の城主にもなっています。

出石城跡・本丸西隅櫓(兵庫県豊岡市出石町)

順調に出世していった秀長ですが、1587(天正15)年以降は体調を崩すようになります。軍務を離れて行政面のサポートに徹するようになったものの、1591(天正19)年に52歳で生涯を終えました。

秀長の死は秀吉にとって大きな損失であり、豊臣家の勢いを削ぎたかった何者かによる暗殺説も存在するほどです。

豊臣秀長の逸話を紹介

豊臣秀長は農民出身でありながら兄の不在を守る役割を担い、戦でも活躍していました。やがて、豊臣家にとって重要な外交や領地の管理を任される存在となっていきます。

縁の下の力持ち的な存在だった、秀長の人柄や活躍を表す逸話を見ていきましょう。

秀吉の良きサポート役だった

秀長は現場の指揮やアドバイスがうまかったとされ、周囲に的確な指示を与えていました。戦に勝つための作戦を練らなければならない場面で、豊臣秀吉に頼られることも多かったといいます。

何かトラブルが起きたときも、温厚な性格の秀長が間に入ることで、大事にならなくて済んだ場面もありました。例えば、秀吉のおい・豊臣秀次が失態を犯し秀吉を激怒させた際も、秀長がかばってやり、信頼回復の手助けをした逸話が残されています。

豊臣秀次像[瑞雲寺所蔵]。一時は秀吉の養嗣子となるが、秀吉に実子の秀頼が誕生したのちは出家、最終的には謀反の嫌疑から切腹。Wikimedia Commons(PD)

人の仲を取り持つのがうまく、秀吉をいさめられる貴重な存在だった秀長の死は、豊臣政権没落の一因ともいわれています。

領主としても手腕を発揮した

秀長は領主として、治めるのが難しいといわれていた、紀州・大和・河内地方をうまくまとめました。領地を巡って武士と寺社が激しく対立する地域でしたが、秀長は寺社の訴えに耳を貸し、問題解決のために努力を惜しまなかったとされます。

同時に、僧兵を抱える寺院を武装解除させ、商工業の担い手に自治権を与えて城下町を栄えさせました。また、領地に陶器職人を招き、「赤膚焼(あかはだやき)」を始めたのも秀長の功績の一つです。赤膚焼は何世代にもわたって使われ、現代でも奈良を代表する特産品として愛されています。

19世紀頃に作られた赤膚焼  http://collections.lacma.org/node/211049, Wikimedia Commons(PD)

兄の天下統一に大きく貢献した豊臣秀長

豊臣秀長は秀吉の弟であり、兄の強い勧めで武士の道を歩み始めた人物です。農民出身でありながら、兄の期待に応えるように武家社会で手腕を発揮し、秀吉の天下統一を陰で支えました。

体調を崩すようになってから戦に行くことはなくなりましたが、持ち前の調整力を生かし最後まで兄を助け続けます。秀長を失ったことは、豊臣家にとって大きな痛手でした。

自分を強く押し出すのではなく、周囲の人間関係をうまく調整することで貢献した秀長は、現代でも一つの生き方として参考になるでしょう。

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構成・文/HugKum編集部

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