文禄の役・慶長の役とは
文禄の役・慶長の役は、飛鳥時代に起きた「白村江(はくすきのえ)の戦い」以来の対外戦争です。概要や、豊臣秀吉の生涯についておさらいしましょう。
豊臣秀吉が行った朝鮮出兵のこと
文禄の役・慶長の役は、豊臣秀吉が2度にわたって明(中国)に侵攻しようとし、朝鮮に出兵した出来事です。文禄の役は1592(文禄1)~1593(文禄2)年、慶長の役は1597(慶長2)~1598(慶長3)年の間に起こりました。
一時は朝鮮の首都・漢城(現在のソウル)を陥落させ、明の国境近くまで攻め込みましたが、さまざまな要因で撤退を余儀なくされています。それら二度の侵攻は、豊臣家が没落する一因になったともされます。
豊臣秀吉はどんな人物?
豊臣秀吉は農民の子として、1537(天文6)年ごろに生まれたと伝わります。ただし出自や生年については諸説あり、はっきりとは分かっていません。
武家奉公をするために故郷を離れた秀吉は、織田信長に仕えます。1582(天正10)年の「本能寺の変」で信長が討たれると、秀吉は首謀者の明智光秀を討ち取り、信長の事実上の後継者として力を付けていきました。
関東で力を持っていた小田原北条氏を打ち破って天下統一を果たしたのは、1590(天正18)年のことです。主な政策として「刀狩令」や「太閤検地」、キリスト教の禁止などを行ったことでも知られています。
▼関連記事はこちら
文禄の役・慶長の役が起きた背景
豊臣秀吉は、なぜ天下統一だけで満足せずに、侵略戦争を開始したのでしょうか。さまざまな説がありますが、資料があまり残されていないこともあり、本当のところははっきりしていません。
一般的に知られている、文禄の役・慶長の役が起きた背景を紹介します。
秀吉の領土拡大への野望
天下統一を果たした秀吉が、さらなる野望として国外に領土を拡大しようとしたという説があります。秀吉が仕えていた織田信長は生前、宣教師から献上された地球儀に大変興味を持っていました。
このため天下統一後は海外へ進出し、領土を広げようと構想していたとも考えられています。領土を広げれば、武功を立てた家来に褒賞として分け与える土地も増やせます。
海の向こうにまで視野を広げていた主君を、すぐ近くで見ていた秀吉が影響を受けるのは、自然なことだったのかもしれません。
列強国の植民地の拡大
秀吉が朝鮮に出兵した当時は、スペインやポルトガルを始めとした列強国が、アジア大陸やアフリカ大陸などへ向け大規模な航海をしていた時代です。
スペインは明に領地を広げた後、日本を植民地化しようとしていたとされ、明への侵攻はこれを食い止めるためだったとする説もあります。
また、秀吉がカトリック教会内の組織「イエズス会」に危機感を抱いたのも、理由の一つとされています。当時のスペインは外国に送り込んだ宣教師から、侵攻する国の情報を仕入れていました。
さらに、ポルトガル人が日本人を連れ去り奴隷として売買したことも、危機感を募らせる原因になったとされます。
文禄の役・慶長の役の流れ
豊臣秀吉が始めた朝鮮への出兵は、本人の死により唐突に終わりを迎えます。文禄の役・慶長の役の始まりから終息までの、全体的な流れを見ていきましょう。
1592年に始まった文禄の役
明を攻めるにあたって、秀吉は明の属国だった朝鮮に侵略の協力交渉を行います。しかし拒否されたため、怒った秀吉は、西国の武将を中心とした部隊を朝鮮半島へ送り込みました。この出来事が「文禄の役」です。
秀吉が素早く侵攻したことで対処が遅れた朝鮮軍は、不利な立場になります。日本軍は侵攻を開始してから1カ月もたたないうちに漢城を陥落させ、一時は朝鮮半島のほぼ全土を征服するに至ったのです。
内部の対立や士気の低下から休戦に
快進撃を続けていた日本軍でしたが、軍内部の対立や士気の低下が激しくなったことで、休戦を余儀なくされます。主な理由は、武将の小西行長と加藤清正の間で対立が起きたためです。両者はもともと、領地の境界線をめぐって関係性がよくなかったとされています。
朝鮮の冬の寒さへの対策や、思うように補給ができなかったことによる疲労によって、兵士の士気が低下していったことも休戦した理由の一つです。
明の援軍や朝鮮水軍の反撃もあり、戦況は悪化していました。1593(文禄2)年、日本と明は講和に合意し、休戦状態に入ります。
再び朝鮮半島へ出兵した慶長の役
「慶長の役」が起こったのは、文禄の役で結んだ講和の条件がまやかしだったためです。実は両国が派遣した使者も文書の内容も、早く休戦するために現場の担当者がでっちあげた嘘だったのです。
秀吉は明が降伏したと思っていましたが、明側でも日本が降伏したと思い込んでいました。嘘はすぐにばれ、明が降伏していないと知った秀吉は激怒し、朝鮮半島に再び軍を送り込みます。
朝鮮に日本式の城を築き、領国にいるときと近い環境を作るなどして、文禄の役の失敗を繰り返さないようにしました。
加藤清正が中心となって朝鮮に築いた「蔚山城(いさんじょう)」は、激戦地となった場所です。明・朝鮮連合軍の襲撃を退けるために籠城戦となりましたが、援軍の到着まで持ちこたえ、「第一次蔚山城の戦い」で勝利しました。
続く「第二次蔚山城の戦い」でも、準備を万端にしていた日本軍が完勝したのです。
秀吉の死により撤退
1598(慶長3)年、第二次蔚山城の戦いの前に秀吉が大阪城で病死します。世継ぎの豊臣秀頼はまだ幼く、日本は海外に出兵するどころではない状況となりました。
第二次蔚山城の戦いの後、秀吉から政務を託されていた五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)の判断により撤退命令が出され、慶長の役が終わります。
二度の戦いによる度重なる出費で、明と朝鮮は財政難に陥ります。特に朝鮮は日本軍の侵略行為によって、人も土地も甚大な被害を受けました。
日本でも、二度も遠征したのに新たな領地は得られず、遠征費などの自腹を強いられた武将の力が弱まります。このことが豊臣政権の弱体化につながり、その後の国内情勢にも大きく影響しました。
朝鮮に深い傷跡を残した文禄の役・慶長の役
文禄の役・慶長の役は、日本を統一した豊臣秀吉が明に侵攻するための足掛かりとして、朝鮮に出兵したために起きました。二度の戦いで、明だけでなく、主戦場となった朝鮮も大きな被害を受けます。
他国に傷跡を残したうえに、攻め込んだ豊臣家自体も勢力を弱め、滅亡してしまいます。朝鮮にとっても日本にとっても、大きな影響のあった戦いだったことを覚えておきましょう。
こちらの記事もおすすめ
構成・文/HugKum編集部