「田沼意次」はどんな人物? 賄賂政治をしたのは本当? 革新的な政策や失脚までの流れも紹介【親子で歴史を学ぶ】

田沼意次は江戸時代中期に老中として活躍しましたが、具体的に何をしたのか知らない人もいるでしょう。その生涯や改革の内容を知ると、どのような人物だったのかが分かります。意次が推進した政策の内容や、失脚するまでの流れなどを見ていきましょう。

田沼意次は偉大な政治家?

田沼意次たぬまおきつぐ)は老中として数々の政策を打ち出し、江戸幕府の政治に大きな影響を与えました。どのような人物だったのかを表すエピソードを紹介します。

旗本から大名になり老中へと上り詰めた

田沼意次は旗本の家に生まれ、将軍の身の回りを世話する小姓から、異例の出世を果たした人物です。旗本とは将軍直属の家臣のうち、領地が1万石未満で将軍への謁見を許された身分です。

9代将軍徳川家重(とくがわいえしげ)に仕えていたときに有能さを見出され、将軍と老中を取り次ぐ側近「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」に抜擢されます。

家重の死後は10代将軍徳川家治(とくがわいえはる)に重用され、1772(明和9・安永元)年には将軍の右腕として、幕府の最高職である「老中」に就任します。旗本からの老中就任は前例がなく、とても珍しいことでした。

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大奥とも上手に付き合っていた

意次は政治が円滑に進むように、大奥に贈り物をしていたといわれます。大奥は将軍のプライベートな空間であり、将軍の子どもを育てて、将軍家を存続させる大きな役割を担っていました。

意次が仕えた将軍・家重は体が弱かったので、大奥にこもりがちだったようです。その分、将軍やその妻に仕える奥女中たちの影響力は大きく、老中であっても気を遣う存在でした。

一説によると、意次が出世できたのは奥女中たちからの評判がよかったことも関係しており、ハンサムだったとも伝えられます。

田沼意次  (牧之原市史料館所蔵), Wikimedia Commons(PD)

賄賂を受け取り政治の腐敗を招いたとも

意次が老中として活躍した時期は賄賂が横行し、政治の腐敗を招いたとされます。これは田沼時代について語られるとき、よくセットになって出てくる表現です。

政策の一つとして商業が奨励された結果、自分たちが有利になるように仕向けたい商人や武士たちが意次にさまざまな贈り物をしたことから、賄賂政治と批判されるようになりました。意次は時代劇などでも、私利私欲に走った悪役として描かれることが少なくありません。

しかし後世になって賄賂の話を検証したところ、幕府で意次をライバル視していた人物の一派や、意次に恨みのある者がまいたデマではないかとする見方も出ています。

田沼意次の政策【商業活動の活発化】

意次が中心となって改革を進めた時期を田沼時代といいます。意次は財政難に陥っていた幕府を立て直すため、商業活動を中心とした政策を打ち出しました。主な政策の内容を見ていきましょう。

商業中心の国作りで幕府の赤字を解消

意次は幕府の財政赤字を解消するため、商業を中心とした貨幣経済中心の国作りをしました。それまでは農民から徴収した年貢を幕府の主な財源としていましたが、農業だけでは限界があると考え、商業を発展させて商人たちからの税収を増やそうとしたのです。

そのため、同業者同士で結成された「株仲間」に商売の独占権を与えて奨励し、商人たちから営業税・営業免許税を徴収します。また、鉄座・真鍮座などの専売機関を設けて、特定物資の生産や販売を独占し、幕府の収入を増やしました。

貨幣の一元化による全国的な商業の活性化

1772(明和9・安永1)年、新しい銀貨「南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)」が発行されました。意次は全国的に商業を活性化させるため、西日本と東日本の貨幣制度の統一を目指したのです。

明和年間に発行された南鐐二朱銀 Photo by As6673, CC-継承 3.0, Wikimedia Commons

貨幣を改革する前は、江戸は金貨、大阪は銀貨で取引していましたが、使用する度に重さを量って、そのときの為替レートに従って取引をしなければなりませんでした。

南鐐は質の高い銀の意味で、南鐐二朱銀には「以南鐐八片 換小判一両(南鐐二朱銀8枚と小判1枚を交換できる)」と記載されています。あらかじめレートが決まっていたことで、計測や両替が必要なくなり、商売が円滑になりました。

田沼意次の政策【貿易と土地開発】

意次は商業活動を活性化させて税収を増やすだけでなく、貿易や土地開発にも力を入れています。政策に込めた狙いと、結果を解説します。

外国貿易の拡大

意次は、制限されていた長崎貿易を緩和したことでも知られています。当時の日本は外国から生糸・絹・火薬・砂糖などを輸入するために、多くの銀を支払っていました。

しかし銀は、幕府の貨幣経済を支えるためになくてはならないものだったので、少しでも海外流出を抑える必要があったのです。

そこで干しあわび・ふかひれなどの産品開発をし、銀の代わりに輸出することで、貿易を拡大しながら銀の流出を防いで貨幣経済の安定を図りました。

干しあわび・ふかひれなどの海産物は俵物(たわらもの)と呼ばれ、料理の材料として清国(中国)で珍重されたそうです。

蝦夷地の開発や干拓を推進

意次は土地開発にも力を入れており、下総国(しもうさのくに:現在の千葉県北部と茨城県の南部あたり)の印旛沼(いんばぬま)や手賀沼の干拓を推進しました。

印旛沼は、千葉県北部の利根川下流南岸に位置する湖沼

また、蝦夷地(えぞち:北海道)の開発計画にも着手し、開拓しようとします。農業からの税収を増やすには田んぼを増やせばよいと考え、新しい農地を生み出そうとしたのです。

ロシアの進出にも目を配り、蝦夷地開発の重要性を感じていたことも理由の一つです。しかし、意次が老中を解任されたことで蝦夷地開発計画は中止になり、干拓も洪水のため中断してしまいます。

田沼意次の転落

革新的な政策を打ち出して幕府の財政悪化を食い止めた意次でしたが、一連の出来事がきっかけで、老中の地位を追われることになります。意次が転落したいきさつを見ていきましょう。

天明の大飢饉と農村の荒廃

田沼時代は、商業の活性化により町人文化が栄えました。一方で、利益が薄い農業で生活できなくなった農民が都市部へ流入し、農村の荒廃が幕府の財政に打撃を与えます。

さらに1781~1789年の天明年間には、悪天候や冷害・浅間山の大噴火・疫病などが重なり、東北・関東地方を中心に「天明の大飢饉(ききん)」が起こりました。

天明飢饉之図 Wikimedia Commons(PD)

病死者や餓死者が続出し、約90万人もの人口が失われたといいます。農作物の収穫量が激減したことで起きた米価格の高騰は、庶民の暮らしにとって大打撃でした。

このため、豪商を優遇する政治に農民や町人の不満は爆発し、百姓一揆や打ちこわしがたびたび起こるようになります。

松平定信の台頭

民衆の不満が高まる中、松平定信(まつだいらさだのぶ)が頭角を現し始めます。定信は徳川吉宗の孫として生まれ、将軍の跡継ぎになる話もありましたが、意次によって白河松平家に養子に出された人物です。

天明の飢饉が起きたころ、定信は現在の福島県白河市にあった、白川藩の藩主でした。定信は白川藩を飢饉から救うために食料や日用品の確保を命じ、公共事業の推進によって庶民に仕事を与えるなどの対策も行って、白川藩に餓死者を出さなかったといわれています。

定信の評判が高まるのとは対照的に、意次は飢饉への対応が遅れたため人気が急落しました。

▼松平定信についてはこちら

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嫡男と将軍の相次ぐ死去

1784(天明4)年に意次の嫡男・意知(おきとも)が殺害され、1786(天明6)年には将軍・家治が死去します。後継者と後ろ盾を失った意次の影響力は、弱まり始めました。

家治の嫡子・徳川家基(とくがわいえもと)は若くして急死していたため、一橋家から養子になった家斉(いえなり)が跡を継ぎ、将軍に就任します。

家斉が将軍になると松平定信が老中として実権を握りました。意次には自宅での謹慎と領地の没収という厳しい処分が下され、表舞台から姿を消すことになったのです。

田沼意次の革新的な政策は賛否が分かれた

意次は旗本の家から老中に成り上がった優秀な人物であり、商業を奨励し土地の開発を目指すなど、進歩的な政策を次々と打ち出しました。

革新的な政策に対して反対意見や新しい問題が出てくるのは、現代でもよくあることです。もし、天変地異が起こらなければ、田沼時代はもっと長く続き、土地開発によって当時の国力は高まっていたかもしれません。

時代劇などでは悪人とされることが多い意次ですが、ライバルとの関係性や当時の社会情勢なども踏まえると、また違った印象を抱けるのではないでしょうか。

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構成・文/HugKum編集部

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