「側用人」って何をする人? 幕府内で強大な権力を持った理由も解説【江戸時代が面白い!】

江戸時代が舞台の物語に、側用人と呼ばれる将軍に仕える人物が登場することがあります。側用人が単に将軍の側にいる人なのか、それとも幕府の役職名なのか、気になる人もいるでしょう。側用人の立場や政治的権力について、分かりやすく解説します。

側用人とは? いつからあったもの?

「側用人(そばようにん)」とは、江戸幕府のある時期に設けられた役職名のことです。側用人が創設された経緯(いきさつ)と、役割を見ていきましょう。

5代将軍・徳川綱吉の時代に創設された役職

側用人は、5代将軍・徳川綱吉(つなよし)の時代に設けられた役職です。最初の側用人は、綱吉が上野(こうずけ)国・館林(たてばやし)藩主だったときから家老として仕えていた牧野成貞(まきのなりさだ)といわれています。

1680(延宝8)年に綱吉が将軍に就任すると、その翌年に、大老の堀田正俊(ほったまさとし)によって側用人に登用されました。その後、側用人は将軍と老中との間を取り次ぐ役職として重要性を増していきます。

老中とは、幕府の政務を取り仕切る役職のことです。10万石以下の譜代(ふだい)大名の中から常に4~5人が選ばれ、政務にあたりました。なお、大老は老中より上の役職ですが、常設ではなく、必要に応じて設けられる臨時職です。基本的には、老中が幕府の最高職だったと考えてよいでしょう。

▼こちらの記事も参考に

「大老」と「老中」の違いは? 仕事内容から有名な大老・老中まで紹介【親子で歴史を学ぶ】
大老と老中は、どっちが偉い? 「大老(たいろう)」と「老中(ろうじゅう)」は、名前が似ているばかりか役職が置かれた時代も同じです。この二つ...

側用人は、次第に権力を持ちはじめた

1684(貞享元)年、堀田正俊が江戸城内で若年寄(わかどしより)によって殺害される事件が起こります。若年寄は、老中を補佐する役職で、老中同様、譜代大名から選ばれていました。

事件後、綱吉は老中や若年寄と距離を置き、側用人を重要視するようになったといいます。それまでは、江戸城内の将軍が起居するスペースに近い場所に、老中が詰める「御用部屋」があり、将軍も同席のうえで政務をこなしていました。

しかし、綱吉は御用部屋を居室から離れた場所に移動させ、老中とのやり取りはすべて側用人を通すことにします。このため、側用人の力は次第に大きくなり、大老並みの権力を手にする人物も現れました。

側用人を設置した五代将軍・徳川綱吉。生類憐みの令でも知られる。
側用人を設置した五代将軍・徳川綱吉。生類憐みの令でも知られる。

有名な側用人を紹介

江戸時代を通じて数々の人が務めた側用人ですが、なかでも特に有名な3人の側用人について、人物像や功績を紹介します。

下級役人から成り上がった「柳沢吉保」

柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は、下級役人の家柄から側用人に成り上がった人物です。上野国(現在の群馬県)館林藩士の長男として生まれた吉保が、家督(かとく)を継いだときの禄高は、わずか530石ほどでした。

やがて館林藩主・徳川綱吉の小姓(こしょう)となり、綱吉が将軍に就任した後は「小納戸(こなんど、将軍の身の回りの世話をする役職)」として仕えます。

綱吉は、吉保をことのほか信頼しており、1688(元禄元)年に側用人に抜擢(ばってき)します。その後も吉保は綱吉を支え続け、1704(宝永元)年には、甲府に15万石の領地を持つまでに出世しました。

東京都文京区にある六義園(りくぎえん)は、この吉保の下屋敷があった場所で、吉保みずから設計した庭園として有名です。

六義園(りくぎえん、東京都文京区)。吉保は1695(元禄8)年に、松平加賀守の上屋敷・染井村の約4万5000坪余の土地を幕府より拝領。7年の歳月をかけ江戸屈指の庭園を完成させる。綱吉の死後、吉保夫妻は本邸から六義園に移り亡くなるまで過ごしている(1714)。
六義園(りくぎえん、東京都文京区)。吉保は1695(元禄8)年に、松平加賀守の上屋敷・染井村の約4万5000坪余の土地を幕府より拝領。7年の歳月をかけ江戸屈指の庭園を完成させる。綱吉の死後、吉保夫妻は本邸から六義園に移り亡くなるまで過ごしている(1714)。

正徳の治の中心人物「間部詮房」

間部詮房(まなべあきふさ)は、6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)の側用人です。甲府藩主・徳川綱重(つなしげ)の家臣の家に生まれ、綱重の子・綱豊(つなとよ、後の家宣)に小姓として仕えました。

綱豊が、綱吉の養子に迎えられると詮房も幕臣に加えられ、やがて側用人となります。その後は学者の新井白石(あらいはくせき)とともに家宣を補佐し、「正徳の治(しょうとくのち)」と呼ばれる改革を推進しました。

家宣の死後は、幼くして将軍になった7代・家継(いえつぐ)の後見人として、引き続き側用人を務めています。

▼こちらも参考に

「正徳の治」はいつ誰が行った? 政策の内容や、その後の流れを把握しよう【親子で歴史を学ぶ】
正徳の治とは? 江戸時代の歴史に登場する「正徳の治(しょうとくのち)」とは、一体どのような出来事だったのでしょうか? まずは、正徳の治の概...

後に老中となった政治家「田沼意次」

田沼意次(たぬまおきつぐ)は側用人の後に老中となり、大胆な政治改革で一時代を築いた人物です。1719(享保4)年、江戸にて幕府旗本の家に生まれた意次は、9代・家重(いえしげ)の小姓となり、能力を認められて10代・家治(いえはる)の側用人へと出世します。

老中就任後は、商業発展を重視する政策や新田開発、インフラ整備などを積極的にすすめ、悪化の一途をたどっていた幕府の財政の立て直しに尽力しました。

田沼意次侯生誕300年記念のマンホール蓋(静岡県牧之原市)。意次は、遠江国相良藩5万7000石の大名にまで出世した。相良藩主としての意次は、街道や港湾の拡張、防火対策、殖産興業など善政を行っている。一方、地元では「ワイロ最中」なるも発売されている。
田沼意次侯生誕300年記念のマンホール蓋(静岡県牧之原市)。意次は、遠江国相良藩5万7000石の大名にまで出世した。相良藩主としての意次は、街道や港湾の拡張、防火対策、殖産興業など善政を行っている。一方、地元では「ワイロ最中」なるも発売されている。

側用人は、一時的に廃止されたことも

将軍の下で権勢をふるった側用人も、一度廃止された時期がありました。側用人を置かなかった将軍と、役職復活の経緯を見ていきましょう。

8代将軍・徳川吉宗の時代に廃止

7代将軍・徳川家継が亡くなると、紀伊(きい)藩主の徳川吉宗(よしむね)が将軍職に就きます。吉宗は、老中執政の復帰をかかげて側用人を廃止し、新たに「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」という役職を設けています。

南蔵院(なんぞういん、東京都板橋区)。生類憐みの令により禁止されていた「鷹狩り」を復興させたのは吉宗。その際、御膳所に指定されたのが南蔵院。吉宗は境内の枝垂れ桜を見てその見事さに「櫻寺」と名付けた。中山道を参勤交代する大名の宿所にもなっている。
南蔵院(なんぞういん、東京都板橋区)。生類憐みの令により禁止されていた「鷹狩り」を復興させたのは吉宗。その際、御膳所に指定されたのが南蔵院。吉宗は境内の枝垂れ桜を見てその見事さに「櫻寺」と名付けた。中山道を参勤交代する大名の宿所にもなっている。

とはいえ、御側御用取次の職務内容は側用人とほぼ同じでした。最初に御側御用取次に任命されたのは、紀伊藩時代からの家臣・有馬氏倫(ありまうじのり)と加納久通(かのうひさみち)です。吉宗と老中たちを取り次ぐ二人の権力は、やはり絶大だったと伝わります。

なお、二人は大名(1万石以上の領地を与えられた武士)でしたが、その後の御側御用取次は、旗本(はたもと)から選ばれるようになり、幕末まで続きました。

▼「旗本」についてはこちら

旗本と御家人の違いとは? 主な仕事や生活、大名との違いも紹介【親子で歴史を学ぶ】
「旗本」「御家人」とは? 江戸時代の「旗本(はたもと)」と「御家人(ごけにん)」が、どのような役割だったのか、よく知らない人も多いのではな...

9代将軍・徳川家重の時代に復活

吉宗が引退して、息子の家重が将軍になると、側用人が復活します。家重は生まれつき病弱で、言語が不明瞭だったため、家重の言葉を理解して老中に伝える補佐役が必要だったといいます。

このとき側用人に任命されたのは、家重の小姓だった大岡忠光(おおおかただみつ)です。彼は家臣の中でただ一人、家重の言いたいことを理解できたといわれています。

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)にも、平岡円四郎(ひらおかえんしろう)や黒川嘉兵衛(くろかわかへえ)といった側用人がいました。彼らは一橋家(ひとつばしけ)の側用人として、14代・家茂(いえもち)の後見職となった慶喜を支えています。

歴史上の役職について知識を深めよう

側用人は、将軍と老中との間を取り持つ重要な役職でした。老中が譜代大名から選ばれるのに対して、側用人の多くは将軍直属の家臣から選ばれています。

側用人を重視した徳川綱吉や徳川家宣は、他藩から将軍家の養子となった人物です。彼らにとって、若い頃から苦楽をともにしてきた家臣は、見知らぬ老中よりも頼れる存在だったのかもしれません。

側用人をはじめとする幕府の役職をあらためて学んでみると、歴史への理解がより深まるでしょう。

こちらの記事も重要!

「生類憐みの令」を制定したのは誰? 保護対象とその顛末についても解説【親子で歴史を学ぶ】
生類憐みの令は、誰が、何のために制定した? 「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」は、いつ、誰が制定したのでしょうか。制定の理由もあ...

構成・文/HugKum編集部

編集部おすすめ

関連記事