「正徳の治」はいつ誰が行った? 政策の内容や、その後の流れを把握しよう【親子で歴史を学ぶ】

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「正徳の治」は、江戸時代に行われた政治改革です。言葉は覚えていても、内容や中心人物について忘れてしまった人が多いかもしれません。正徳の治とはどのような政策だったのか、中心になった人物は誰なのか、歴史についてあらためて学び直しましょう。

正徳の治とは?

江戸時代の歴史に登場する「正徳の治(しょうとくのち)」とは、一体どのような出来事だったのでしょうか? まずは、正徳の治の概要と、正徳の治を語るうえで欠かせない中心人物について解説します。

江戸中期に、7年続いた政治

「正徳の治」は、江戸時代中期の6代将軍徳川家宣(いえのぶ)、7代将軍家継(いえつぐ)の下で重用された、朱子学者の「新井白石(あらいはくせき)」が進めた政治改革です。

新井白石肖像(『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』)。(国立国会図書館デジタルコレクションより)

 

学問や朱子学を基礎にした文治(ぶんち)政治といわれるもので、1709(宝永6)年に開始され、1716(享保元)年まで、7年間続きました。

人々を苦しめた「生類憐(しょうるいあわれ)みの令の廃止」や、正徳金銀の発行による「貨幣価値の回復」、「海舶互市新例(かいはくごししんれい)の制定」、「朝鮮通信使の待遇簡素化」、「閑院宮家(かんいんのみやけ)の創設」など、さまざまな改革を行いました。

重要人物「新井白石」

新井白石は、幼い頃から非常に賢く、上総久留里(かずさくるり)の藩士の子として、藩主たちにかわいがられた人物です。

その優秀さから、甲府(こうふ)藩主である徳川綱豊(つなとよ)に仕えることとなり、綱豊が家宣と改名し、6代将軍となった際、お抱え儒学者として抜擢されました。

非常に気性が荒く、そのせいで苦境に立たされたこともありましたが、たとえ貧しくとも、学ぶことをやめない情熱家でもあったようです。また、強い信念を持ち、将軍にも、おそれず意見をすることもあったともいわれています。

歴史学を得意とし、多くの著書を残しているだけでなく、晩年は詩人としても尊敬を集めていました。

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正徳の治で行われたこと

新井白石が進めた正徳の治は、それまでの幕府による「武断政治」から、学問を基礎にした「文治政治」への変革でもありました。正徳の治で行われた改革について、具体的に見ていきましょう。

貨幣改鋳

勘定奉行を務めていた荻原重秀(おぎわらしげひで)は、財政難だった幕府の救済措置として、それまで流通していた純度の高い貨幣を回収し、金銀含有量の低い貨幣を発行する政策を行いました(1695)。

しかし、この政策によって貨幣価値は下がり、インフレが発生、賄賂(わいろ)も横行してしまいます。

お金の価値を取り戻すべく、白石が提案したのが「貨幣改鋳(かいちゅう)」です。金銀含有量を以前と同じ量に戻した「正徳金銀」を発行することで貨幣価値を上げ、インフレを改善することを目的とした経済政策でした。

海舶互市新例

海舶互市新例(かいはくごししんれい)」は、海外との貿易額を制限する法令です。当時の日本は鎖国中でしたが、オランダと清(しん)に限って交易が許可され、活発な貿易が行われていました。

一方で、取引には大量の金銀が必要だったため、国外に日本の金銀が大量に流出していたのです。

白石は、オランダは年間2隻で取引額は銀3000貫まで、清は年間30隻で取引額は銀6000貫、と取引額を制限すると同時に、絹や糸などの国産化を推し進めました。

この法令は文政年間まで、貿易の基礎となっています。

生類憐みの令を撤廃

犬好きだった5代将軍綱吉(つなよし)によって制定された「生類憐みの令」は、犬猫だけでなく、生き物すべての殺生(せっしょう)が禁じられていたため、害虫と戦う農民たちにとって理不尽な法令でした。

おまけに犬猫の保護がエスカレートし、「犬屋敷」で多くの犬を養うなど、財政にも影響が出るようになりました。

そこで行われた改革が「生類憐みの令の撤廃」です。綱吉は、遺言で生類憐れみの令の継続を懇願したようですが、死後、1週間で撤廃が決定しています。

同時に、理不尽な処罰を受けていた人々の処罰が免除され、多くの人が解放されました。

皇族家系の新設

江戸時代中期の朝廷には、天皇直系の血筋は「伏見宮(ふしみのみや)」「有栖川(ありすがわ)宮」「京極(きょうごく)宮」の三つしかありませんでした。このままでは、天皇家が断絶すると考えた白石が提言したのが、新たな皇族家系の新設です。

実際に、1779(安永8)年の後桃園(ごももぞの)天皇崩御(満21歳)の際、直系男子がいなかったため、皇統は断絶の危機に陥りましたが、新たな宮家として誕生した「閑院宮家(かんいんのみやけ)」出身の光格(こうかく)天皇が即位することで皇統が守られました。

現在の天皇家は、この閑院宮家の血筋です。

皇居二重橋(東京都千代田区)。現在の天皇家は、新井白石が提言して新設された閑院宮家(光格天皇)の血筋。
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正徳の治は、なぜ終わったのか

乱れた世を正し、庶民にとって暮らしやすい時代への変革を目指していた正徳の治は、わずか7年で終焉を迎えてしまいます。その原因は、一体何だったのか、詳しく見ていきましょう。

新井白石が失脚

白石が進めた「正徳の治」は、かなり大胆な政策であったため、幕臣たちからは大きな反発を受けていました。それでも白石は、その情熱と家宣の後ろ盾に守られ、改革を進めていったのです。

しかし、白石を重用していた家宣が、将軍就任後、わずか3年で死亡、後を継いだ家継も、7歳で病死してしまいます。

その後、8代将軍となった徳川吉宗(よしむね)が正徳の治を否定したため、白石は職を追われることになりました。白石が政治の世界で活躍したのは、わずか7年で、志半ばにして失脚することになったのです。

「正徳の治」終了後、「享保の改革」へ

吉宗の就任後の改革が「享保(きょうほう)の改革」です。白石が情熱を注いだ正徳の治でしたが、幕府の根本的な体質の改善には至らず、また財政難の改善も見られなかったため、吉宗によって、ほとんどの法令が廃止されました。

享保の改革で積極的に取り組んだのは、将軍自らが政治を行う体制に立て直すこと、財政難から脱却すること、の二つです。

自らも倹約生活をし、農民や町民の意見を取り入れるため「目安箱(めやすばこ)」を設置するなど、吉宗独自の目線でさまざまな改革を行いました。

徳川吉宗公之像(和歌山市)。和歌山城公園の南側、県立近代美術館前に立つ。1684(貞享元)年に紀州藩主・徳川光貞の四男として生まれた吉宗は、1716(享保元)年に8代将軍となった。「暴れん坊将軍」は、現在も和歌山の英雄なのだ。
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「正徳の治」は、武断政治で起きていた不均衡を廃止し、学問や朱子学によって国を治めていこうという文治政治への挑戦でした。この改革には、皇族家系の新設など、現代まで続く礎になった改革も含まれています。

正徳の治の中心人物であった新井白石は儒学者でしたが、歴史学や詩にも優れており、たくさんの本を書き残しています。機会があれば、一度読んでみるのも楽しいかもしれません。

この時代をもっと知るためのおすすめ参考図書

小学館版 少年少女学習まんが 日本の歴史13「士農工商」

小学館版 少年少女学習まんが 日本の歴史14「幕府の改革」

中公文庫 マンガ 日本の歴史33「満ちる社会と新井白石」

小学館 逆説の日本史14 近世爛熟編「文治政治と忠臣蔵の謎」

岩波文庫 「折りたく柴の記」

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構成・文/HugKum編集部

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