徳川家康とは、どのような人物?
「徳川家康」を学ぶにあたって、まずは、彼が生きた時代背景や偉業の概要を押さえておきましょう。どのような性格であったのかも紹介します。
江戸幕府を開いた武将
徳川家康は、江戸幕府の初代将軍です。1603(慶長8)年に開かれた江戸幕府は、その後260年以上も政治の中心であり続けました。
家康は、1542(天文11)年12月26日、三河(現在の愛知県)に生まれました。世は、まさに戦国時代で、今もその名を轟(とどろ)かせる武将たちが各地で激しい戦いを繰り広げていました。
その中にあって、徳川家康は天下を統一し、室町時代から安土桃山時代にかけてずっと続いてきた戦乱の世を平定させたのです。江戸時代には、目を引くような大きな戦(いくさ)はほとんど起こっていません。
じっくりチャンスを待つ慎重派
「鳴かぬなら…」で始まるホトトギスの歌を知っている人も多いでしょう。この歌は、安土桃山時代に活躍した武将3人の性格を表しています。
「殺してしまえホトトギス」と続けるのが織田信長、「鳴かせてみせようホトトギス」が豊臣秀吉、そして「鳴くまで待とうホトトギス」というのが徳川家康です。
とはいえ徳川家康は、機を見るに敏な武将でした。情勢が自分にとって悪いと判断すれば、すぐに身を引き、追い風が吹いたときには、一気に攻め込んだのです。
戦国時代の武将たちは、それぞれ天下統一を目指して戦っていました。攻守の切り替えの巧みさこそ、徳川家康が乱世を生き残り、天下人(てんかびと)に名を連ねる武将となった理由といえるかもしれません。
徳川家康の生涯
徳川家康は、江戸幕府を開いた強い将軍というイメージがある一方で、棚ぼたで天下統一を成し遂げた武将、という印象を抱いている人もいるかもしれません。家康が天下を取るまでに、いったい何があったのか、幼少期から晩年までのその生涯を見ていきましょう。
幼少期を人質として過ごす
家康は、三河国の岡崎城主・松平広忠と、その妻・於大(おだい)の方の間に生まれました。幼名は「竹千代(たけちよ)」といいます。当時の松平家は、駿河(するが)の今川義元と尾張(おわり)の織田信孝の2大勢力に挟まれた形になっていました。
今川家に従っていた広忠は、忠誠を示すために、当時6歳の竹千代を人質に差し出そうとします。しかし護送の途中で、家臣の裏切りにより、竹千代は織田家の人質となってしまったのです。
さらに竹千代が8歳のとき、人質交換のために、今度は今川家の人質となり、そこで1555(弘治元)年、元服して「元信(もとのぶ)」と名乗り、1558(永禄元)年に「元康(もとやす)」と名を改めます。1560(永禄3)年、元康19歳のときに、今川家と織田家が対決した「桶狭間(おけはざま)の戦い」が起こりました。
この戦で、今川義元が討たれた機に乗じて、元康は今川家から独立し、1562年、幼少期をともに過ごした織田信長と「清洲(きよす)同盟」を結びます。
関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍に
清洲同盟により力強い味方を得た元康は、三河国を平定し、1563(永禄6)年、22歳のときに「家康」と名を改めました。織田信長とは、この後約20年にわたってよい関係が続きます。1566年(家康25歳時)に朝廷から三河国の統一を命じられて従五位下(じゅごいのげ)に叙位され、それを機に松平から「徳川」へと姓を改めました。
ほとんどの戦に勝利した家康が、唯一敗北したのが、1572(元亀3)年に起こった武田信玄との「三方ケ原(みかたがはら)の戦い」です。家康は、この情けない姿を自ら「徳川家康三方ケ原戦役画」(徳川美術館所蔵)という絵に残し、悔しさを忘れないよう心にとどめたといわれています。
本能寺の変(1582)で信長が討たれた後、秀吉が天下の実権を握るようになります。家康を敵に回したくないと考えた秀吉は、妹の朝日姫を離婚させてまで彼に嫁がせ、家康を大坂城へ呼び寄せました。秀吉の晩年は重臣として重用します。
秀吉の死後、家康の勢力を嫌った豊臣家の忠臣・石田三成(みつなり)が戦を仕掛け、1600(慶長5)年に天下分け目の「関ヶ原の戦い」が始まります。この戦いを制して家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、ついに天下を統一したのです。
駿府城で人生の幕を下ろす
1603年、朝廷により征夷大将軍に任ぜられると同時に、家康は江戸幕府を開きました。征夷大将軍とは、全国の武士を統率する役職です。家康は、まず「江戸城」を増築して城下町を整え、貨幣を統一して江戸の整備に取りかかります。
江戸湾からの水路を開き、湿地を埋め立てて土地を拡充し、城下に武家屋敷と町民が住む城下町を配置しました。やがて物流が盛んになって江戸は発展し、今の東京の原型となったのです。
政治面では、征夷大将軍となってから、わずか2年後の1605年、家康は将軍職を息子の秀忠に譲ります。その後も「大御所(おおごしょ)」として権力を振るい、1614(慶長19)年「大坂冬の陣」と1615(元和元)年の「大坂夏の陣」で豊臣家を滅亡させたのです。
翌年の1616年、家康は鷹狩りの最中に腹痛を起こし、現在の静岡県にある駿府城(すんぷじょう)で療養を始めます。しかし病状は回復せず、駿府城でその生涯を終えました。
徳川家康が作った法令
天下統一を確実にした後、江戸幕府による太平の世を盤石なものとするため、家康は「一国一城令(いっこくいちじょうれい)」と「武家諸法度(ぶけしょはっと)」を作りました。大名を押さえ込んだ、この二つの法令について見ていきましょう。
一国一城令
徳川家康は大坂夏の陣と同年の1615年6月、「一国一城令」を公布し、「一つの国につき城は一つ」と定めます。
江戸幕府が開かれたばかりの時代には、戦国大名が残した領地を受け継いで、自分が住んでいる居城以外にも、一族が住む支城を持つ大名が多くいました。この支城は、ひとたび反乱が起きれば、幕府を脅かす軍事拠点となり得ます。
一国一城令により領地内の居城以外の支城をすべて破壊し、各地の大名の戦力を大きく削ぐことが家康の狙いだったのです。
武家御法度
一国一城令を補足するため、1615年7月、徳川秀忠の名で「武家諸法度」が発布されました。13条からなる武家に向けた決まり事であり、これにより大名の行動を規制しようとしたのです。
武家諸法度には、「学問と武道にひたすら励むこと」といった武家のたしなみのほかにも、「城を修理する場合は、必ず幕府に申請すること」や「幕府の許可なしに結婚してはいけない」など細かな点まで定められていました。
武家諸法度に背いた大名は、たとえ江戸幕府にどれだけ貢献した者であっても、厳しく処罰されたといわれています。なお、武家諸法度は将軍が代わるごとに改定され、「参勤交代」が追加されたのは、3代将軍・家光の時代です(1635)。
徳川家康が分かる! 子どもと一緒に読める本
歴史を学ぶときは、それぞれの人物の生涯に焦点をあてた本を読むと、その時代全体への理解を深める助けになります。徳川家康の生涯についてよく分かる書籍を3冊紹介します。
超ビジュアル!歴史人物伝 徳川家康
この本は、まんがとイラスト付き解説文を織り交ぜて家康の生涯を紹介しています。生い立ちから太平の世を築いた晩年まで、大きく4章に分けた構成です。
小学4年生以上向けで、難しい漢字には、ふりがなが付いています。最初に、まんがで躍動感のあるストーリーを紹介した後に、それを補足するように詳しい解説が入っているため、各武将の動きや歴史の流れがより理解しやすいでしょう。
小学館版 学習まんが人物館 徳川家康
文字は苦手という子どもなら、こちらの本がおすすめです。子ども向けではありますが、家康の英雄的な部分だけではなく、知略を巡らす一面もリアルに描かれています。
内容は軽くはありませんが、親しみやすく分かりやすい説明のまんがなので、低学年の子どもでも抵抗なく物語に入っていけるでしょう。なお、電子版には資料編が掲載されていません。
角川まんが学習シリーズ まんが人物伝 徳川家康
こちらの本も、まんがで家康の生涯を追ったものです。監修者の山本博文氏は近代日本史に詳しく、『江戸お留守居役の日記』で第40回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しています。
絵柄やコマ割りも青年漫画風なので、子どもだけではなく大人も熱中して読めそうです。まんがだけでなく、巻末には人物や出来事をさらに詳しく知るための学習ページが付いており、より深い学習の手助けになるでしょう。
徳川家康が天下人となるまでの軌跡を学ぼう
簡単に家康の生涯を追っただけでも、さまざまな出来事があったことが分かります。知れば知るほど、新たな疑問も浮かぶでしょう。それこそが戦国武将の魅力です。
波瀾万丈な幼少期から、政治だけではなく経済も動かした徳川家康は、今も人気を博しています。家康の生涯を詳しく知りたいと思ったら、おすすめの書籍を親子で一緒に読んで、感想を話し合ってみるのもよいかもしれません。
構成・文/HugKum編集部