大久保利通とは?
「大久保利通(おおくぼとしみち)」の名前は知っていても、具体的に何をした人なのかは、覚えていない人もいるでしょう。彼が歴史に名を残した経緯を簡単に解説します。
明治政府の中心人物
大久保は、幕末に薩摩藩の若者たちの中心となって倒幕運動を展開し、明治維新を成し遂げたメンバーの一人です。維新に関わる一連の功績により、同郷の西郷隆盛や長州藩の木戸孝允(きどたかよし)とともに、「維新三傑」と呼ばれています。
明治新政府が誕生した後は、武力で旧幕府勢力を一掃し、新政権の安定化に貢献しました。政府内では重要なポストに就き、辣腕(らつわん)を振るいます。
高い政治力で政敵を退け、最高権力者となって独裁体制を敷いたことでも知られています。
若き日の大久保利通
大久保利通の生家は、いたって平凡な武家で、藩の要職に就けるような家柄とはいえませんでした。貧しく、エリートでもなかった大久保は、どのようにして頭角を現したのでしょうか。
貧しさに苦しみ、病弱だった幼少期
大久保は1830(文政13)年に、薩摩藩の下級藩士の子として生まれます。もともと病弱で、「タケンツツボ(竹の筒)」とあだ名を付けられるほど、長身で痩せていました。
体が弱いため、武術の訓練についていけない大久保は、もっぱら勉学に励みます。17歳のころに藩の事務仕事をする役所で働きはじめますが、父親が藩主の跡継ぎ争い(お由羅騒動)に巻き込まれ、親子ともども失業の憂き目にあいます(1850)。
父親は流罪、利通は謹慎処分となり、ほかに収入源がなかった大久保家は、経済的に大変厳しい生活を強いられました。3年後、島津斉彬(しまづなりあきら)が藩主になると、父は赦免(しゃめん)され、利通も職場に復帰します。
下級藩士から、藩政に関わる立場へ出世
島津斉彬は、身分にかかわらず、才能のある若者を積極的に登用する藩主でした。大久保と同じ町内で育った西郷隆盛も、斉彬に見いだされた下級藩士の一人です。
外国の文化に高い関心を持ち、日本の近代化を目指す斉彬の姿は、大久保や西郷らに大きな影響を与えました。
斉彬が亡くなると(1858)、大久保は斉彬の弟・久光(ひさみつ)に接近します。久光は新藩主・忠義の父親で、幼い藩主に代わり「国父(こくふ)」として実権を握っていました。
大久保が下級藩士の身分で、国父に近づけた理由は、囲碁(いご)です。久光が大好きだった囲碁の相手を務めるうちに、側近に取り立てられるほど信頼されるようになりました。
西郷隆盛とともに新しい国づくりを目指す
1862(文久2)年、大久保は久光が目指す「公武合体(こうぶがったい)」政策実現のため、京都や江戸に出て活動を始めます。公武合体とは、朝廷と幕府が協力して、不安定な政局を乗り切ろうとする計画のことです。
しかし、肝心の久光が幕府と対立したため、公武合体の実現は難しくなります。日本の未来のためには、幕府を倒すしかないと考えた大久保は、幼なじみの西郷隆盛とともに倒幕運動を主導します。
「尊王攘夷(そんのうじょうい)」を主張して公武合体派と敵対していた長州藩と「薩長同盟」を結び、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)に接近して、朝廷にも倒幕を働きかけました。
さらに、「大政奉還(たいせいほうかん)」(1867)後も、元将軍として存在感のあった徳川慶喜(よしのぶ)を、朝廷を動かして政界から完全に締め出します。その後は、武力によって抵抗する旧幕府軍を鎮圧し(戊辰戦争)、完全に新しい政権をスタートさせることに成功しました。
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明治政府での功績
明治政府に加わった大久保利通は、さっそく日本の近代化に取りかかります。歴史の授業に登場する重要な政策に携わり、大きな功績をあげました。明治政府で、大久保が実行した主な政策を紹介します。
「版籍奉還」や「廃藩置県」を実行
江戸時代は、藩の土地や住民を所有していたのは「大名」でした。明治政府が日本全国を統治するためには、土地や住民の所有権を、大名から日本の国家元首である天皇へ移す必要があります。
とはいえ、いきなり所有権を奪っては、大きな混乱が起こるのは確実です。そこで大久保は、薩摩・長州・土佐・佐賀の各藩主と相談し、朝廷に対して版(土地)と籍(住民)を返す「版籍奉還(はんせきほうかん)」を願い出てもらいました(1869)。
維新に貢献し、新政府に人材を多く出している有力な四藩が版籍奉還を願い出たことで、他の藩も追随します。しかし、旧藩主は「知藩事(ちはんじ)」として引き続き行政を任されたため、人々の意識はあまり変わらなかったようです。
政府の方針に不満を持ち、独自に軍備を強化する藩もあったため、大久保はついに「廃藩置県(はいはんちけん)」を断行します(1871)。藩は県となり、政府から県令(知事)が派遣されて知藩事と交代します。知藩事は「華族(かぞく)」の身分を与えられ、東京に移住することになりました。
欧米視察をきっかけに、富国強兵策を推進
「廃藩置県」を実行した1871(明治4)年の冬に、大久保は「岩倉使節団」の一員として欧米諸国を訪問します。各国の進んだ技術や文化を実際に見聞きして、大久保は大きな衝撃を受けました。特にイギリスの工場に大変驚き、日本のさらなる近代化に取り組むことを決意します。
帰国後、大久保は国が産業の発展を主導する「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」政策を進めます。外国人の技師を招いて技術を広めたり、官営工場を設立して工業製品を大量生産したりしました。
海外で人気のあった国産の「生糸(きいと)」に着目し、富岡製糸場(とみおかせいしじょう)を建てたのも大久保です。殖産興業で潤った資金で武器を調達し、「徴兵令」を発して軍隊を組織するなど軍事力の強化にも努めました。
士族の反乱を鎮圧
「版籍奉還」の後、武士階級の人は「士族(しぞく)」の身分を与えられましたが、同時に仕事や特権も失ってしまいます。仕える主(あるじ)がいなくなり、誰もが兵士になれる徴兵令のおかげで、武士本来の役割を果たすことすら難しくなりました。
自分たちをそのような境遇に追いやった明治政府に不満を募らせた士族は、各地で反乱を起こします。大久保は新政府軍を派遣して、反乱の鎮圧にあたりました。
1877(明治10)年には、西郷隆盛が九州の不平士族を率いて挙兵し、「西南戦争(せいなんせんそう)」が起こります。大規模な反乱でしたが、最新装備の新政府軍にはかなわず、敗れた西郷は自害しました。
親友の西郷を死に追いやってまで改革を進める大久保は、士族の反感を一身に受けます。西南戦争の翌年、東京都赤坂の紀尾井坂(きおいざか)で不平士族6人に襲われ、49歳でその生涯を終えました。
日本の近代化に人生をささげた大久保利通
大久保利通は、貧しい下級武士の子で、体格にも恵まれていませんでした。その代わり学問に打ち込み、政治力を磨いて出世コースを歩みます。
ついには260年以上続いた江戸幕府を滅ぼし、新政権をつくって、日本を近代国家に導くリーダーの一人になりました。大久保が亡くなった後も、その志は引き継がれ、明治の終わりには欧米列強と肩を並べるほどの発展を遂げます。
日本の近代化にすべてをささげた大久保の人生を振り返りながら、幕末明治の歴史を改めて学んでみましょう。
もっと知りたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが人物館「富国強兵・殖産興業―近代日本の礎をつくった男 大久保利通」
講談社学術文庫「大久保利通」
河出書房新社 ふくろうの本「図説 西郷隆盛と大久保利通」
小学館 逆説の日本史22 明治維新編「西南戦争と大久保暗殺の謎」
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構成・文/HugKum編集部