桓武天皇によって築かれた平安京
平安京は794年(延暦13年)、第50代天皇・桓武天皇(かんむてんのう)によって遷都された都です。その後、1869年(明治2年)まで天皇が住む日本の首都でした。
現在の京都市に存在した都
平安京という名前からもわかるように、穏やかで平和な日が続くようにと願いをこめて造られた都です。場所は、三方が山に囲まれた現在の京都市中心部が選ばれました。
北は船岡山の南側から南は九条通りまで、東は鴨川から西は西京極あたりまでの、東西約4.5km、南北約5.3kmにおよぶ広大さをほこります。
北側中央部には天皇が政務を執る平安宮が、平安宮からまっすぐ南下した位置には平安京の正門ともいえる羅城門(らじょうもん)が造られました。
また、平安京の周辺には桂川・鴨川・宇治川・木津川・淀川が流れており、水上交通の発達した地域でもあったのです。
唐の都・長安にならって造られた
平安京は唐(とう:当時の中国の王朝)の都・長安がモデルといわれています。現在の京都市に残る条坊制(碁盤の目のような区割り)は、長安をまねて造られたものなのです。
当時、近隣諸国で最も力を持っていたのは唐です。日本は遣唐使を大勢の留学生とともに派遣し、唐の文化や制度を学ばせていました。
朝廷の威光を示すために長安と同じ規模の都を造ろうとしますが、地理的な制約や労働力不足のため、長安の四分の一に縮小せざるをえなくなります。
とはいえ、当時の長安の人口は100万、平安京の人口はわずか10万人だったので、それでも大きすぎる規模でした。
そうした状況を鑑みて、桓武天皇は平安京の造営が難しいと判断し、805年に平安京造営中止の詔(みことのり)を出したのです。
平安京の右京は未完成のまま
桓武天皇の詔により、平安京は未完成のままとなりました。
都を造営する人手が足りなくなった原因の一つは、東北地方の蝦夷(えみし)の討伐に軍隊を差し向けていたことです。討伐と造営を同時進行したために人手不足となり、さらには労働力と税収の減少にまでおよびました。
そのため、平安京の右京(西半分)は未完成のまま放置されることになります。現在の京都市を見てもわかるように、繁華街は平安京の左京(東半分)部分に集中しています。
唐の都市になぞらえて、右京は長安城、左京は洛陽(らくよう:唐の都市)と呼ばれていました。長安城という呼び名は現代には残っていませんが、洛陽の方は「洛中」「洛外」といった呼び方に残っています。
平安京に遷都するまでの経緯
都を移すのには相応の理由があります。平安京遷都の場合は、平城京の政情不安が主な原因でした。
平城京末期の混乱
平城京に都があった頃、次第に仏教勢力が強大になり、政治に介入するようになりました。天武系最後の天皇・称徳天皇(しょうとくてんのう)は僧の道鏡を重用し、自分の次の天皇にしようとまでしました。
しかし、その思惑はうまくいかず、天皇が亡くなると天智系の光仁天皇(こうにんてんのう)が即位することになります。
壬申の乱以降、100年ほどは天武系の天皇が続いていましたが、皇位をめぐって天武系の皇族の粛清が相次いでいたこともあり、称徳天皇の後継者選びは難航しました。そういった中で、天智天皇の孫の白壁王が光仁天皇として即位したのです。
しかし、光仁天皇の即位から数年後、皇后と皇太子が位をはく奪された上、不審な死を遂げるという事件が起こります。
その後、平城京では瓦や石が降ってきたり、内裏(だいり:天皇の住まい)に雷が落ちたりといった怪奇現象が起こり、当時の人々は皇后と皇太子の祟りだと怖れました。
このような平城京の混乱が、長岡遷都および平安遷都の背景にありました。
長岡京で続く不運
光仁天皇の子である桓武天皇は、平城京から離れて長岡京に都を移します。しかし、この長岡京も不運続きで、10年間しか続きませんでした。
長岡京の不運の始まりは、造営の責任者が矢で射殺されたことです。その事件に関与したとして、桓武天皇の弟の早良親王(さわらしんのう)が流罪になります。親王は無実を訴えて絶食し、まもなく死亡しました。
その後、長岡京では疫病(えきびょう)が流行し、桓武天皇の母や妃たちが亡くなる不幸が起こります。桓武天皇はそれを早良親王の祟りと捉え、長岡京に都を置くことを諦めたのです。
そうして、794年に長岡京から北東に約13km離れた平安京へ遷都しました。
平安京で実権をにぎった藤原氏
平安京に都があった時代、最も勢力をのばしたのが藤原氏の一族です。
平安遷都時は四家に分かれていた
藤原氏とは、大化の改新の立役者・藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の子孫です。鎌足の子・不比等(ふひと)の子どもたちがそれぞれ家を興していたため、平安遷都当初は北家・南家・京家・式家の四家に分かれていました。
そのうち、南家・京家・式家は数々の政変を経て没落していき、平安遷都時にも勢力を維持していたのは北家のみでした。
北家の藤原良房(ふじわらのよしふさ)は、皇族以外で初めて摂政となります。これ以降、北家は代々の摂政・関白・太政大臣を輩出し、藤原氏の絶頂期を築いていきました。
藤原道長と摂関政治
藤原氏が政権中枢で権力を得た要因の一つは「摂関政治」です。摂関とは摂政と関白のことで、摂政は天皇が幼いときに代わりに政務を担当し、関白は成人した天皇の補佐にあたります。
摂政も関白も、奈良時代までは皇族しかなれませんでした。しかし、藤原氏は娘を天皇に嫁がせ、生まれた子を天皇に即位させることで、天皇の外祖父(母方の祖父)として実権をにぎったのです。
藤原氏の最盛期を築いたのは藤原道長です。彼は娘たちを次々に天皇の妃にし、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠みました。「満月に欠けている部分がないように、この世は私のものである」という意味です。
こうして栄華を極めた藤原氏ですが、平安末期に始まった院政を経て、鎌倉に武家政権が誕生すると政権の中枢からは離れていきました。
▼藤原道長についてはこちら
院政と藤原氏の衰退
1086年(応徳3年)に白河上皇による院政が始まると、天皇の代わりに退位した天皇(上皇)が政務を執るようになり、摂政・関白の権限は制限されていきました。
「治天の君」として政治の実権をにぎるためには、天皇を退位するだけでなく、自分の子が天皇になっている必要がありました。このことが、やがて複雑な皇位継承問題をひき起こします。
天皇家と藤原氏、さらに新興武士勢力(源氏と平氏)の勢力争いが複雑に絡み合って起こったのが、1156年の「保元の乱」と1159年の「平治の乱」です。その後、平氏の覇権を経て、鎌倉に源氏による武家政権が誕生します。これにより、藤原氏の時代は完全に終焉を迎えました。
▼こちらも参考に
平安京のおもかげが残るスポット
現在の京都には、平安京のおもかげを残すスポットが点在しています。ここでは、平安宮が存在した場所にある平安宮跡や、羅城門の東を守る東寺について紹介します。
平安宮跡
平安京の北辺中央部には、天皇が政務を執る平安宮がありました。現在の二条城の北西側、中京区聚楽廻西町や上京区千本丸太町などのあたりです。
国の重要な儀式が行われた大極殿跡や、饗宴(きょうえん:客をもてなすための宴会)が行われた豊楽殿跡などの石碑が数多く点在します。現在は、住宅が建ち並ぶ市街地なので、石碑を見逃さないように注意して歩きましょう。
平安宮跡の最寄り駅・JR二条駅前には「平安京と平安宮」という案内板があり、散策の前に読んでおくのをおすすめします。詳細なマップと説明文があり、現在地も確認できます。
東寺と西寺
平安遷都は祟りから逃れる目的もあったため、都の守護はきちんとしなければなりません。そのため、平安京を守るために四方に門が作られました。
四方の門のうち、南門は平安京の正門ともいえる羅城門です。羅城門の東西には東寺と西寺が建立され、東寺は今でも残っています。五重塔で有名な東寺は新幹線からも見られるので、知っている人も多いのではないでしょうか。
桓武天皇の子・嵯峨天皇(さがてんのう)の時代には、弘法大師(空海)が東寺を任されます。世界遺産にも登録されている大伽藍の建立は、このときから始まりました。
千年の都・平安京に思いを馳せて
平城京の政情不安から平安京に都が移されましたが、遷都後も疫病や祟り、自然災害など不安な状況は続きました。右京は未完成のまま荒れてしまい、治安も悪かったとされています。
それでも、平安京は400年もの間政治の中心地となり、日本独特の文化が生まれました。源氏物語や枕草子などの文学が華開いたのも平安京です。
政治の中心地が鎌倉や江戸に移ってからも、京都は文化の中心として人々の憧れの街でした。現在でも京都を訪れる人はあとをたちません。千年の都・平安京に思いを馳せてみませんか。
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構成・文/HugKum編集部