紫式部はどんな人?何をした?
紫式部はもともと文学者だった訳ではありません。しかし教養豊かな家に生まれたため、文学的素養は備えていたと考えられます。紫式部の生涯を見ていきましょう。
学者の父に育てられ教養を身につけた
紫式部は貴族の生まれです。曾祖父・藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)は、醍醐天皇の時代には有力な貴族の一人でした。しかし父・為時(ためとき)の頃には、後に紫式部自身が嘆いたほど落ちぶれていたとされます。
一方で一族には歌人が多く、父も当時有数の学者・詩人と呼ばれるなど、教養に触れる機会には恵まれていました。才気煥発な少女だった紫式部は、父が娘ではなく息子であったらと残念がったほどの教養を身につけていきます。
ちなみに「紫式部」は源氏物語の登場人物「紫の上」と、父の官名だった「式部」にちなんだ呼び名です。当時は男女ともに役職や通り名で呼ばれていたため、紫式部の本名は分かっていません。
夫の死後「源氏物語」を書き始める
紫式部は20代半ばで、20歳以上年上だったとされる遠縁の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚します。翌年娘が産まれますが、間もなく宣孝は病死してしまいました。以後、紫式部は未亡人として暮らすことになります。
紫式部が「源氏物語」を書き始めた時期とされているのはこの頃です。背景には、夫に先立たれた不安や現実からの逃避の気持ちもあったといわれています。「源氏物語」の評判は徐々に高まり、紫式部が宮中に仕えるきっかけになりました。
宮中に出仕して皇后の側近に
1005(寛弘2)年頃、紫式部は一条天皇の中宮・彰子(しょうし)の女房(宮中に部屋を与えられた上級女官)として出仕します。それは彰子の父・藤原道長が、紫式部の文才を認めたためといわれています。彰子に漢詩や和歌の講義をしたことからも、評価の高さがうかがえるでしょう。
また、酒の席で貴族から「若紫」と源氏物語の登場人物名で呼ばれたり、一条天皇から「日本紀(日本書紀)をよく読んでいる」と言われたことから「日本紀の御局」とあだ名されたりといった逸話も残っています。
紫式部の正確な生没年は定かではありません。一条天皇の崩御後も彰子に仕え続け、40歳前後で亡くなったと伝えられています。
「源氏物語」以外の紫式部の作品
紫式部の作品は「源氏物語」だけではなく、日記や歌集も残されています。現代でも知られている二つの作品を見ていきましょう。
「紫式部日記」
中宮・彰子の女房として宮中にいた、1008(寛弘5)年7月から1010(寛弘7)年1月までの宮中行事や出来事、感想などを記したものです。「日記」と題されていますが、毎日書かれていた訳ではありません。1010年頃に成立した紫式部の回想録です。
彰子の子である親王(後の後一条天皇)の誕生や一連の行事について記す一方で、華やかな宮中の雰囲気になじめない紫式部の苦悩も書かれています。
また、同時代の才女と呼ばれた清少納言や和泉式部などの批評、自分の人生の振り返りなど、内容はさまざまです。紫式部の考え方や心のうちはもちろん、当時の宮中の行事や風俗を知る上で貴重な資料とされています。
「紫式部集」
紫式部は歌人でもありました。歌人・藤原範兼(ふじわらのりかね)によって、中古三十六歌仙にも選出されています。
「紫式部集」は、本人が厳選した和歌の家集(個人の歌集)です。少女時代から晩年までの作品から選ばれており、人と心のうちをやりとりしたものを指す「贈答歌」が多く収められています。それらからは、紫式部が人間関係を大切にしていたことがうかがえるでしょう。
「小倉百人一首」や「新古今集」にも選出された一首、「めくりあひて みしやそれとも わかぬまに くもかくれにし よはのつきかけ(よはのつきかな)」も収められています。
紫式部と同時代を生きた女性文学者
平安時代には、紫式部の他にも評価された女性文学者がいました。その中から、紫式部と同時代を生きた4人を紹介します。
清少納言
「枕草子」の作者で、紫式部と並び称される女性文学者です。清少納言の呼び名は父・清原元輔(きよはらのもとすけ)の姓にちなんでいますが、「少納言」の由来は分かっていません。
随筆形式で書かれた300余段から成る「枕草子」からは、作者の感性や観察眼がうかがえます。また、宮中文化や貴族の暮らしを知る資料としても貴重です。
「紫式部日記」で紫式部が清少納言を批判したことから、二人が不仲だったという説もあります。しかし、清少納言は紫式部が出仕するより前に宮中を辞しており、直接の面識はありませんでした。
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和泉式部
和泉式部は、華やかな恋愛遍歴で知られる歌人です。紫式部と同様に、中古三十六歌仙にも選出されています。和泉式部の呼び名は、夫の和泉守(いずみのかみ)・橘道貞(たちばなのみちさだ)の官名と本人の役職にちなんでいます。
代表作「和泉式部日記」の内容は、冷泉天皇の第3子・為尊(ためたか)親王や第4子敦道(あつみち)親王との恋愛や、夫婦関係の破綻、父から勘当を受けたことなどの顛末です。詠んだ和歌も、恋愛を題材にした情熱的なものが多く収められています。
実は「和泉式部日記」の作者ははっきりしていません。しかし、収められた和歌の詠風が本文の内容に添っていることから、和泉式部自身の作であることが有力視されています。
藤原道綱母・菅原孝標女
藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は、「蜻蛉日記」の作者です。夫・藤原兼家(ふじわらのかねいえ)との結婚生活における不安・不満・苦悩、子・道綱への愛情や芸術の世界などを自伝的に綴りました。中古三十六歌仙の一人でもあります。
菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、藤原道綱母の姪にあたる女性です。少女時代は熱烈な「源氏物語」の読者で、夫と死別した50歳頃から執筆を始めた「更級日記」には、文学に関心を抱いたことや結婚生活などがまとめられています。
紫式部は豊かな教養を備えた女性
紫式部は学者の父のもとで育ち、豊かな教養を身につけた女性です。夫に先立たれた頃に書き始めた「源氏物語」は貴族たちに評価され、紫式部が宮中に出仕するきっかけとなりました。
紫式部の作品は、当時の貴族社会の行事や風習を知る貴重な資料の一つです。一方で、作品からは人との関係を大切にした一人の女性の姿も見られます。人生を切り開いたともいえる文才と合わせて、紫式部の考え方も味わってみましょう。
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構成・文/HugKum編集部