【第7回】現在ロンドンで3人の子ども(9歳,9歳,6歳)を育てるライターの浅見実花さん。東京とロンドンの異なる育児環境で子育ての「なぜ?」にぶつかってきた彼女にとって、大切なことは日々のふとした瞬間にあるのだそうです。まずはちょっと立ち止まって、自分なりに考えること。心の声に耳を澄ましてあげること。そういう「ちょっと」をやめないこと。この連載では、そうしてすくい取られたロンドンでの気づきや発見、日本とはまた別の視点やアプローチについて、浅見さんがざっくばらんに&真心を込めて綴っていきます。
第7回は、子どもたちの持っている「好き」や「したい」の熱量について。
現地校のアート・クラブに関わって
最近まで、子どもたちの通う現地の小学校で「アート・クラブ」の運営を手伝っていました。
クラブと言っても会員も定員もなく、お昼休みに生徒たちが出入りして好きなことをするだけの活動です。場所は校内のアート・ルーム(図工室のような部屋)。内容も基本的には自由です。中には安全上の理由や大人の都合でできないこともありますが、あとはそれぞれ好きなことをすればいい。材料や道具はそのへんの棚にストックされているものを適当に使います。紙、色紙、スクラッチペーパー、シール、キラキラ、色鉛筆、絵の具、ペン、マーカー、クレヨン、パステル、チャコール、フォイル、布、ボタン、毛糸、リボン、紐、棒きれ、モザイク、はさみ、ボンド、糊、セロハンテープ……。
低学年を中心に、毎日30人から50人がそれぞれ自由にカキカキ、ジコジコ、ペタペタしていく1時間。その間、運営するボランティア1名が交代でお世話します。
子どもたちの熱量がすごい
私もここでしばらくお手伝いをしましたが、毎回すごいと思うのは子どもたちの熱量です。そしてその純度の高さ。
「ぼくは〜〜したい!」
「わたしは〜〜がほしい!」
「お願い、これ手伝って!」
まるで子どもたちそれぞれの「ああしたい」「こうしたい」というエネルギーが身体の外へワッと出て、こちらに向かって突進してくるような。
たとえばある回、私は日本の折り紙をこのクラブに持ち込みました。やりたい人は一緒にどうぞというふうに。折り紙はそのままOrigamiという英単語になっており、工作として人気です。発音は「オリガーミィ」。「オリ」をボソっと言ってから「ガー」のところでアクセント。
すると興味を持った子たちが私のところへドスドスと押し寄せてくる。口々に自分の希望を主張します。
「なになに、ぼくもやりたい、教えて!」
「ツルを折ろうよ、いますぐに!」
「 どうやってカエルを作るの? 青がいい、濃いのじゃなくて淡いほうね」
これらにたいして、
「わかった。ツルが人気のようだからまずツルを、それからカエルを作っていこう」と私。
まずはツルの希望者がそのぷっくり膨れた短い指を夢中になって動かします。
「それ、ぼくできない。手伝って!」
「あたし、分かるわ。やってあげる」
「もうできちゃった。早く次に進もうよ!」
そしてツルの最難関、袋を開いてひし形にとがらせる例の作業を乗り越えると、いよいよ鳥は羽を大きく広げます。
「やったー、できた! それじゃもう1羽作ろう」
「ダメだよ、つぎはカエルをやるんだから。さあ、カエルの作りかたを教えて!」
「ぼくは金のツルが欲しいんだ。金色の折り紙ちょうだい!」
えらいことです、この熱量。とにかくやりたい、もっとしたい。ぼくがわたしが、われ先に。
ねえ、こっちを見て! ぼくの話を聞いて! わたしに注目して!(わちゃ、わちゃ、わちゃ……)
遠慮とか配慮とか、そんなのあったもんじゃありません。ちょっとしたカオスです。
そこで私たちボランティアの役割は、まず子どもたちの安全を確保して、問題が起きればそれに対応し、子どもたちを励ましてハッピーにしてあげること。それから自分も楽しむこと。
子どもの頃の熱量は失われていく?
それでふと思いました。ここにいる子の大半は7〜8歳です。すでに大人になって久しい私も、この年齢の時分にはこれほどピュアで力強い熱量を持っていたんだっけ、と。
たしかに昔はこんな感じだった気も……。
古い記憶を呼び戻すと、幼い頃ほど好きなようにやっていたように思います。絵を描いて、砂場で遊んで、木によじ登り、家の周りを探検する。自身の「好き」や「したい」を軸に、自分で自分を楽しませる。そういうふうに生きていて、それでいいよと守られていた。
そんな子どももやがて小学校へ入学し、低学年・中学年・高学年と進んでいくと、どうでしょう。事情はかなり変わってきます。
学校にいる以上、定められた時間の中で、教えられた通りのことを、教えられた通りのしかたで遂行するよう指導を受ける。そこでは文字のとめ・はねや、行進の手の振りかた、前へ習えのポーズの角度、机の配置の位置までもがこと細かに統制され、時間をかけてチェックを受けます。文字が書ければ、手を振れば、机が並んでいればじゃダメなんです。この角度、この動き。机は床のテープの位置ですよー!
もちろん社会で生きる以上、法律やルールを遵守することは必須ですが、何気ない学びの場、生活や暮らしの場でも一事が万事「指示されたことを、指示された通りに遂行する能力」を強力にブーストされ、それができると褒められるのが学校でもあるわけです。そしてこの訓練が10年以上続いていく。そうやって集団や社会のカタに自分自身をはめていく。自分の中の「こうしたい!」「こんなのどうだろう?」はいったん忘れて。
それから例の「空気」があります。「普通じゃないよ」「それって変」「無理だよね」。そういう見えない集団的な圧力が———それらの基準はときに脆くて移ろいやすいものなのに———むくむくと立ち上がり、それぞれの子に大なり小なり影を落とす。そして多くの子どもたちが、なかば自己防衛的反応として1つの“常識”にたどり着きます。
「みんなと同じが安心で、違っているのはよくないな」
そうやって、私たちは何かを手に入れ、別の何かを失っていく。
日本社会の「普通」って?
じつはこれからロンドンを離れ、家族で日本へ戻ることになったのですが、このことを打ち明けた英国の友人たちから、ある指摘を受けました。
「コンフォーム(Conform)」。意味は「集団や社会で期待される“普通”に従う」ということです。この“普通”に従うプレッシャーが日本はとりわけ強いじゃない、と。それがおそらくロンドンで生まれ育ったあなたの子どもの“チャレンジ”になるかもね。頑張って、幸運を祈っているわ!
まさにそれです、コンフォーム。日本社会の“普通”に従い、自分を“普通”の人間にもっていく。場合によっては自身を捻じ曲げ、あるいはどこかで欺いて。コンフォームという力学は大なり小なりどんな国や社会にも存在しているものだけど、とりわけ日本は強いでしょ、と。
なるほど。たぶん、おっしゃるとおり。
熱量を育む、あるいは取り戻す。子どもも、私も
それでも、私たちそれぞれにできることはあるんじゃないかと思います。社会でサバイブしていくための適合を試みながら、守れるものがきっと———だれのでもなく自分にとって大切なもの、自身を夢中にさせるもの、追い求めていたいもの。それをどこかで打ち捨てず、手をかけて(場合によってはひっそりと)大切に守ってやるということが。
これはだれかにやってもらうことではありません。自分にしかできないことです。
自分の「したい」を仕事にするか、あるいはそれが仕事として成立するかは別の話になるけれど、たとえどんなに些細なことでも、みずから湧き出た「したい」の力が私たちを内側から満たし(あるいは癒し)、前を向いていくための原動力になることは十分にあると思う。
「すべての子どもは芸術家だよ。問題は、大きくなっても芸術家でいられるかだ」
そう言ったのはピカソですが……
今回のトピックは、いつの間にか何かを失ってしまった大人たち、それからすでに成長しきった超長寿社会の住人にこそ、切実なテーマなのかもしれませんね。
浅見実花(あさみ みか)
大学卒業後、広告代理店に勤務。のちロンドンへ渡る。マーケティング&ファイナンス修士。著書に『子どもはイギリスで育てたい!7つの理由』(祥伝社)。現在、在英9年目。3児の母(9歳、9歳、6歳)。ウェブサイト→ https://www.asami-mika.com/ インスタ→ https://www.instagram.com/asami.asami.m/





