和菓子には、季節や行事に合わせて四季を楽しむ日本人の心が表されています。「白い黄金」と称された貴重な砂糖をつかった和菓子は、まず、富裕層向けに京都で発達し、将軍のお膝元である江戸に広まりました。 文政元年に、江戸・九段に出府を果たした榮太樓總本鋪。およそ160年前に、現在の日本橋の地に店を構えて営業を続け、創業200年を迎えました。和菓子を庶民に届け続けてきた榮太樓總本鋪がお届けする「和菓子歳時記」。ふだんの暮らしで親しんできた和菓子にまつわるエピソードをお楽しみください。
江戸時代に広まった「七五三」
男の子は5歳、女の子は3歳と7歳のときに、数え年で行われる子どもの成長の儀式である「七五三」のお祝いが定着したのは江戸時代です。 中国で奇数が縁起のよい数とされたところから、成長の節目の年の数が、そのまま行事の名称になったとされています。江戸の昔、子どもの死亡率はとても高く、「七五三」は子どもの健康と長寿を祈る大切な成長の節目の行事とされ、今日まで受け継がれてきました。 「七五三」が11月15日とされたのは、江戸時代の将軍・徳川綱吉が徳松君と呼ばれた幼少の頃、この日に祝儀を行ったことから、式日とするならわしになったとか。
千歳飴に込められた親の願いとは?
「千年」を意味する「千歳」に込められた長寿の願い
千歳飴は、ご存じのように紅白の棒状の細長い飴です。 砂糖と水飴が原料の飴は、引っ張ると伸びることから、「飴のように長く伸びる」ことを「長生きする」になぞらえて、「千歳(千年)」まで長生きしてほしい」という思いが込められており、かつては縁起をかついで「折ってはいけない」とされていたという一説もあるようです。 その歴史は、元禄時代にさかのぼります。浅草の七兵衛という飴売りが、細長い袋に、縁起のよい鶴と亀、祝福の能の演目「高砂」に登場する夫婦「翁と媼(おうな)」をあしらって売り出したのが始まりとされています。
おめでたづくしの榮太樓の千歳飴袋
栄太樓本舗の千歳飴の長袋も、その夫婦「翁と媼(おうな)」が描かれていますが、七五三らしく、稚児人形仕立てにしたところに、庶民に和菓子を届け続けて来た榮太樓らしさがあります。 背景に描かれている松は、「高砂」の舞台に欠かせない「相生の松」をモチーフにしています。「相生の松」とは、黒松(雄松)と赤松(雌松)が1つの根から生え出た松のことで、格別の神木とされ、これもまた、縁結びや夫婦和合、長寿の象徴として尊ばれています。 枯れない松と夫婦の仲睦まじさを謳った能の演目「高砂」をモチーフにした、おめでたづくしの榮太樓の千歳飴袋は、世代を超えて愛されています。
三歳なら3本、五歳は5本、七歳は7本。歳の数を揃えるのが本来の祝い方
千歳飴の数にはあまり、ごだわりを感じていらっしゃらない方も多いと思いますが、年の数を用意して祝うのが本来の形です。 そして、千歳飴は、お祝いとして子どもが食べるものですが、地域によってはお祝い返しの「内祝(うちいわい)」として配る風習もありました。 榮太樓の千歳飴は、創業の頃から、その味は「梅ぼ志飴の榮太樓」が造る飴として長らく愛されてきました。しきたりの長袋にも、古来ゆかしい絵柄を貫いています。 由緒正しい「七五三」に欠かせない千歳飴で、お子様のすこやかな成長をお祝いください。
監修:榮太樓總本鋪(えいたろうそうほんぽ)の歴史は、代々菓子業を営んできた細田家の子孫徳兵衛が文政元年に江戸出府を果たしたことに始まります。最初は九段で「井筒屋」の屋号を掲げ菓子の製造販売をしておりました。が、やがて代が替わり、徳兵衛のひ孫に当たる栄太郎(のちに細田安兵衛を継承)が安政四年に現在の本店の地である日本橋に店舗を構えました。数年後、自身の幼名にちなみ、屋号を「榮太樓」と改号。アイデアマンであった栄太郎は代表菓子である金鍔の製造販売に加え、甘名納糖、梅ぼ志飴、玉だれなど今に続く菓子を創製し、今日の基盤を築きました。榮太樓ブランドサイト&榮太樓オンラインサイト
公式オンラインストアでは、インスタグラム投稿キャンペーンを実施中。榮太樓のお菓子とお子様を一緒に写ったとっておきの晴れの日の写真を「#榮太樓で七五三」をつけてご投稿ください。公式サイトやSNSでご紹介いたします。
構成/HugKum編集部 イラスト/小春あや