芥川龍之介とは?
「芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)」の名前や作品を知っていても、どのような人物だったのかまでは知らない人も多いのではないでしょうか。龍之介が作家として活躍した時期や、有名になった経緯を見ていきましょう。
日本を代表する作家の一人
龍之介は、大正時代に活躍した小説家です。大学に在学中から、仲間とともに執筆活動に熱中していました。卒業後も、執筆への情熱は衰えず、35歳で亡くなるまでに数多くの名作を発表しています。
龍之介の死後、親友だった菊池寛(きくちかん)は、新人作家を応援するための「芥川龍之介賞」を創設しました。また龍之介の命日は、晩年の作品タイトルにちなんで「河童忌(かっぱき)」と呼ばれています。
亡くなってから90年以上経った現在も、多くの人に親しまれている龍之介は、日本を代表する作家の一人といえるでしょう。
芥川龍之介の生涯
芥川龍之介の類いまれな才能は、どのように育まれ、見出されたのでしょうか。作品を読む前に、その生涯を振り返ってみましょう。
伯母に育てられた幼少期
龍之介は1892(明治25)年に、現在の東京都中央区明石町(あかしちょう)で誕生しました。父は牛乳の製造販売業を営んでいた、新原敏三という人物です。
生後7カ月頃に、母フクが精神の病(やまい)にかかり、龍之介の養育が困難になります。そのため母の実家である芥川家に預けられることになりました。
芥川家では、母の姉フキが芥川を育ててくれました。教育熱心だった伯母(おば)の影響で、龍之介は大変優秀な子どもに成長します。11歳でフクが亡くなった後は、正式に芥川家の養子となりました。
大学在学中に作品を執筆
1913(大正2)年に、東京大学の前身・東京帝国大学英文科に進学した龍之介は、翌年に処女作「老年」を発表します。発表の場は、龍之介が高校の同期の菊池寛や久米正雄(くめまさお)らとともに発刊していた、同人誌「新思潮」でした。
本格的に執筆活動をスタートさせた龍之介は、幼なじみの女性に恋愛感情を抱き、結婚したいと考えます。しかし家族に反対され、泣く泣くあきらめることになりました。
悲恋を経験した龍之介は、1915年に人間のエゴイズムを描いた「羅生門(らしょうもん)」を発表します。「羅生門」は代表作の一つに挙げられる名作ですが、当時はあまり注目されず、作家としての苦悩を味わうことになりました。
「鼻」の発表が活躍のきっかけに
龍之介は大学在学中に、知人の紹介で、すでに文学界の大物だった夏目漱石(なつめそうせき)が主宰する会合「木曜会」に参加するようになります。
その後、1916(大正5)年に龍之介が「新思潮」に発表した「鼻」を読んだ漱石は、作品を高く評価し、激励の手紙を送りました。
憧れの存在でもあり、師と仰いでいた漱石に評価され、自信を深めた龍之介は、大学卒業後も教師として働きながら執筆活動に励みます。
初の短編集「羅生門」(1917)のヒットを皮切りに、続々と執筆依頼が舞い込むようになった頃には、教師を辞めて新聞社に籍を置く「専業作家」となりました。
芥川龍之介の晩年
執筆活動が軌道に乗り、経済的にも安定した龍之介は、友人が紹介してくれた女性と結婚して家庭を築きます。
しかし、妻への不満をきっかけに、歌人「秀しげ子(ひでしげこ)」と、一度だけ過ちを犯してしまいました。しげ子と別れた後、龍之介は病気を患い、精神的にも肉体的にも衰弱していきます。
執筆が思うように進まず悩んでいたところに、さらなる不幸が起こります。龍之介の姉の嫁ぎ先で火災が発生し、姉の夫が放火と保険金詐欺の疑いをかけられてしまったのです。人生に失望した義兄は自殺し、残された借金と姉一家の面倒を龍之介が見ることになります。
経済的な不安や、家族を守らなければならない重圧により、龍之介は追い詰められていきました。そして1927(昭和2)年、35歳のときに大量の睡眠薬を飲んで自ら命を絶ってしまったのです。
芥川龍之介の人物像や作風
芥川龍之介は、時代が変わっても、人の心をつかみ続ける、魅力的な作品を多く残しています。龍之介の人物像を物語るエピソードと、作風について見ていきましょう。
賢く繊細な性格の持ち主
龍之介は物心つく前に生家を出て、伯母に育てられています。親戚とはいえ、幼い頃から、よその家で暮らした龍之介は、常に「いい子にしていなければ見捨てられる」と、強迫観念にかられていました。
父が、母の妹との間に子どもをつくったために、両家の仲が険悪になってしまった出来事も、過敏な年頃だった龍之介の心を傷付けます。
幼少期の辛い体験により、繊細で臆病(おくびょう)な性格に育った龍之介は、人気作家となってからも、自分に自信が持てなかったようです。
はたから見れば、端正で、女性からもてはやされていた自分の顔ですら、「へちまのような長い顔」と卑下していたと伝わっています。
人間の心情を巧みに描く
龍之介が執筆した作品は、ほとんどが短編小説です。長い時間をかけてやっと気付くような人間の心情を、短い物語の中で簡潔に、かつ鮮やかに描き出しています。
夏目漱石の称賛を受けた「鼻」では、ユーモラスな一面も垣間見えます。文学的な技巧にも優れており、どこから読んでも美しいと思える点も、龍之介作品の魅力です。
子ども好きとしても知られ、児童向けの小説も多く手がけた龍之介の作風には、人間という生き物への愛情が満ち溢れています。
芥川龍之介のおすすめ作品
子どもの頃に読んだ作品も、大人になって読み返すと、新たな気付きが得られるはずです。芥川龍之介を知るために、一度は読んでおきたいおすすめ作品を紹介します。
「羅生門」
「羅生門」は、平安時代後期に編さんされた説話集「今昔物語集」を基に書かれました。平安京の朱雀大路(すざくおおじ)に実在した「羅城門(らじょうもん)」を舞台に、善悪とは何かを考えさせる物語です。
相次ぐ天災によって荒廃してしまった都や、行き倒れた人の死体置き場となってしまった羅城門の様子が、まるで見てきたかのように描かれています。失業して、行くあてのなくなった下人(げにん)と、同じく餓死の危機に直面している老婆のやり取りも迫力があり、何度読んでも引き込まれるでしょう。
「蜘蛛の糸」
「蜘蛛の糸(くものいと)」は、1918年に、子ども向けの文学雑誌「赤い鳥」に発表された童話です。龍之介の中期の代表作として知られており、国語の教科書にも掲載されているので、読んだことがある人も多いでしょう。
あらゆる悪事を働いて地獄へ落ちた「カンダタ」は、生前にたった一度、クモの命を救ったことで、地獄から出られるチャンスを得ます。しかし、自分だけが助かろうとしたために、せっかくのチャンスをふいにしてしまいます。
カンダタを地獄から救おうと考えたお釈迦様(しゃかさま)が、がっかりしてその場を去る様子や、何事もなかったように過ぎていく極楽の平和な時間の描写が、カンダタの浅はかさを引き立てており、深く考えさせられる作品です。
「地獄変」
「地獄変(じごくへん)」は、鎌倉時代初期の説話集「宇治拾遺(うじしゅうい)物語」に収録されている「絵仏師良秀(よしひで)」を基にした小説です。天下一の腕前を誇る絵師「良秀」の、芸術に向き合う姿勢と道徳観について描いています。
殿様から地獄の様子を描いた屛風絵(びょうぶえ)の依頼を受けた良秀は、絵師のプライドをかけ、あらゆる手段を使って地獄を再現しようとします。そして最後には、自分が最も大切にしていたものまで失ってしまうのです。
良秀が見せる芸術への執念を描いた本作は、発表当初から高く評価され、歌舞伎や映画など、さまざまな手段で語り継がれています。
「或阿呆の一生」
「或阿呆の一生(あるあほうのいっしょう)」は、龍之介の死後に発見された遺稿です。冒頭には、親友の久米正雄に宛てた文章があり、龍之介の先輩・谷崎潤一郎や、師であった夏目漱石、友人の宇野浩二といった実在の人物がモデルと思われる章もあります。そのため、龍之介が自身の人生を振り返り、自伝として書き遺したものとも考えられています。
「阿呆」というタイトルには、成績優秀で押しも押されもせぬ人気作家になったにもかかわらず、最後まで自分に自信を持てずにいた、龍之介の本心が込められているのかもしれません。
多くの名作を残した芥川龍之介
芥川龍之介は、35年という短い生涯の中で、300を超える小説を執筆しました。本格的に執筆を始めたのが20代の前半なので、10年ほどでそれほど多くの作品を生み出したことになります。
龍之介がもう少し長く生きていてくれたら、もっと面白い物語に出会えたかもしれません。子どもと一緒に、天才作家・芥川龍之介の作品を純粋に楽しんでみるとよいでしょう。
あなたにはこちらもおすすめ
構成・文/HugKum編集部