長野県にある国宝「松本城」。黒塗りの威容だけじゃない、歴史や見どころを詳しく解説

長野県の松本城は、美しい黒塗りの天守を目当てに、国内外から多くの観光客が訪れる人気スポットです。戦国時代から続く天守や櫓は、国宝として大切に保存されています。築城の歴史や見どころを押さえて、松本城観光を楽しみましょう。

松本城とは?

「松本城(まつもとじょう)」は、長野県松本市内に立つ大きな城郭(じょうかく)です。旅行パンフレットやWebサイトなどでもよく紹介されており、長野観光の目玉的な存在といってもよいでしょう。

松本城が多くの人々を惹きつける理由は、どこにあるのでしょうか。

長野県松本市にある国宝の城

松本城は、現在、国内に12カ所しか存在しない、天守が現存する城の一つです。一番大きな「大天守」は外から見ると五階建て、内側は六階建ての「五層六階」構造になっています。

五層六階の天守は、大変珍しいため歴史的な価値が高く、1952(昭和27)年には「大天守」を含む五棟の建物が、国宝に指定されました。

城の周囲は大きな堀がめぐらされ、晴れて風が穏やかな日には、水面に天守が映る様子が見られます。背後には雄大な北アルプスの山々が連なり、天守を引き立てています。

松本城と北アルプス。大天守の向こうに映える雄大な北アルプスの山々。ピラミッド型の常念岳(じょうねんだけ)や横通岳(よことおしだけ)が美しい稜線を見せている。

松本城の特徴

松本城を正面から見ると、大天守の向かって右側に小さな「乾小天守(いぬいこてんしゅ)」があり、「渡櫓(わたりやぐら)」でつながっています。

この三棟は、戦国時代末期に建てられたもので、当時の城には、侵攻してくる敵の攻撃を食い止める工夫が随所に施されていました。

松本城にも「狭間(さま)」や「石落(いしおとし)」と呼ばれる、敵を攻撃する仕掛けがたくさんあります。

「狭間」は、鉄砲や弓で外の敵を狙い撃ちするための小さな窓で、「石落」はベランダのように張り出した床に穴を開け、石や鉄砲で近づいた敵を撃退する仕掛けです。

大天守の向かって左側には「辰巳附櫓(たつみつけやぐら)」と「月見櫓(つきみやぐら)」があります。

この二棟は、江戸時代の初期に増築されたもので、戦いへの備えはほとんど見られません。すでに平和な時代が到来しており、天守の用途も変わっていたことがよく分かります。

このように、建てられた時代や目的が異なる複数の建物を、一度に見学できる城は、ほかにありません。

松本城。中央が「大天守」、右側に「乾小天守」と「渡櫓」、左側に「辰巳附櫓」とその手前に「月見櫓」がある。

松本城の歴史

松本城はもともと、天守を持たない小さな城だったようです。現在の姿になるまでの歴史を見ていきましょう。

深志城が松本城の始まり

松本城の前身は、1504(永正元)年に信濃(しなの、現在の長野県)の守護「小笠原貞朝(おがさわらさだとも)」の家臣が建てた「深志(ふかし)城」といわれています。

ただし、深志城がどのような構造だったのかは分かっていません。

その後、武田信玄が小笠原氏を信濃から追い出し、深志城は武田氏のものとなります。

1582(天正10)年に武田氏が滅んだ後は、何度か城主が入れ替わり、戦国時代が終わりに近づいた頃、信玄に追い出された小笠原長時(ながとき)の息子・貞慶(さだよし)が城主として返り咲きます。

貞慶は深志を松本と改め、城郭整備と城下町の拡充を始めます。

城郭の整備と、城下町の拡充に着手

松本城主となった8年後、貞慶は息子・秀政(ひでまさ)と一緒に関東へ移ります。貞慶親子の次に松本城に入ったのは、豊臣秀吉の家臣・石川数正(かずまさ)でした。

数正は貞慶が始めた城郭の整備事業を続けようと、工事に取り掛かります。しかし、松本に移って2年後に「文禄の役」(豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵した出来事)で亡くなってしまいました。

数正の事業は、息子の康長(やすなが)が引き継ぎ、大天守・乾小天守・渡櫓が完成します。石垣や堀、門なども、この時期に整備されました。

江戸時代に入ると石川家に代わって、徳川家とかかわりの深い譜代大名が城主を務めることになります。辰巳附櫓や月見櫓は、3代将軍・徳川家光の頃に城主だった、松平直政(なおまさ)が建てました。

松本城の見どころは?

松本城には、天守のほかにも、見どころがたくさんあります。古い歴史を持つ松本城ならではの、おすすめポイントを見ていきましょう。

黒で統一された天守

松本城の天守は、外壁も屋根も黒く塗られているのが特徴です。

大天守は城壁の上半分が白、下半分が黒で塗り分けられており、当時の城郭にしては、大変珍しい仕上げとなっています。

天守の建築を計画した石川数正は、もともと徳川家康の重臣でした。主(あるじ)を裏切って秀吉に仕えた数正は、秀吉からもあまり信用されていなかったのかもしれません。

秀吉が建てた大坂城が黒で統一されていたために、家康と敵対する秀吉への忠誠心を示そうと、同じようなデザインにしたといわれています。

天守内部では、狭間や石落などが見学できるほか、周辺で見つかった甲冑(かっちゅう)などが展示され、戦国の雰囲気を肌で感じられます。

家紋があしらわれた黒門

城内への入場口となっている「黒門(くろもん)」は、1960(昭和35)年に復元された城門です。

本丸御殿へ通じる正式な門であり、当時、最も高位とされる色が黒だったことから、格式の高さを表すために「黒門」と呼ぶようになったと考えられています。

松本城「黒門」。黒門は本丸への正門になるが、櫓門と桝形で構成されている。本丸防衛の要の門で、写真の「一の門(櫓門)」は1960(昭和35)年に、「二の門(桝形)」と袖堀は1989(平成元)年に復元された。この黒門の設計図が残っていなかったため、設計者は名古屋城の渡櫓門を参考にしたという。

 

門の屋根の上には、歴代城主の家紋が付いた「軒丸瓦(のきまるがわら)」が並んでいます。軒丸瓦は、建物の軒を飾る円筒状の瓦のことで、端に家紋などの文様が付いているのが特徴です。

黒門の軒丸瓦は、天守を解体修理したときに保存してあったものを再利用しており、次々と城主が代わった松本城の歴史を象徴しています。

どのような家紋があるのか、門をくぐる前に観察してみるとよいでしょう。

四季のイベント

すぐ近くに北アルプスの山々が迫る松本は、四季折々の自然が楽しめるエリアです。

松本城の天守も、春の桜や冬の雪景色など、季節ごとに美しい姿を見せてくれます。「夜桜会」や「そば祭り」のような、四季のイベントを楽しみに訪れる人も少なくありません。

黒門の先の本丸庭園には、武士や忍者、姫など戦国時代の扮装をした「国宝松本城おもてなし隊」が登場します。一緒に記念撮影することも可能なので、捜してみるとよいでしょう。

日没後は、毎晩22時まで天守がライトアップされます。夜空をバックに雄大な天守がくっきりと浮かび上がる様子は、とても幻想的です。

雄大で美しく、歴史的価値も高い松本城

松本城の天守は、数百年前の時代を体感できる、貴重な文化財です。美しい外観とは裏腹に、内部には戦いへの備えが多く見られ、戦乱の世が現実にあったことがよく分かります。

訪れた際には、歴史的価値を意識して、日本屈指の名城を存分に楽しみましょう。

参考:国宝 松本城 – 松本城をより楽しむ公式ホームページ

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構成・文/HugKum編集部

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