大日本帝国憲法とは? どんな特徴がある?
「大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう)」とは、どのような憲法だったのでしょうか。主な特徴を紹介します。
日本で初めて制定された憲法
大日本帝国憲法は、1889(明治22)年2月11日に発布、そしてその翌年に施行された日本初の憲法です。「明治憲法」とも呼ばれ、1947(昭和22)年5月3日に「日本国憲法」が施行されるまで、およそ57年間にわたり効力が続きました。
なお、憲法は定める主体によって「欽定(きんてい)憲法」と「民定憲法」に分類されます。欽定憲法は国を治める君主が、民定憲法は国民主体で定めるものです。大日本帝国憲法は、当時の日本の君主であった天皇が国民にあたえる、という形式をとっていたため、欽定憲法に該当します。
草案は、ドイツの憲法を参考にしてつくられた
日本初となる憲法の草案をつくるために、明治政府は、すでに憲法を制定していたヨーロッパ諸国を調査してまわります。調査に携わった伊藤博文(いとうひろぶみ)は、ドイツ帝国内にあるプロイセン王国の「プロイセン憲法」に着目し、草案をつくる際の参考とすることを決めました。
プロイセン憲法を手本とした理由は、皇帝と皇帝のもとにある政府が大きな力を持っていた点にあります。天皇中心の国づくりを目指していた明治政府にとって、皇帝が強い権力を持つプロイセン憲法は都合がよかったのです。
大日本帝国憲法成立までの流れ
憲法制定は、国家の方向性を決める大事業です。制定することを決めてから実際に成立するまでの流れを、詳しく見ていきましょう。
大日本帝国憲法の制定が必要になった背景
明治政府が、憲法制定を急いだ背景には、江戸時代に欧米諸国と締結した「不平等条約」がありました。早く条約を改正しなければ、日本は近いうちに欧米の植民地となってしまう恐れがあったのです。
しかし、岩倉(いわくら)使節団が欧米に赴いた際は、国力の差から条約改正は実現しませんでした(1871~73)。そのため、日本は欧米と肩を並べる近代国家に生まれ変わる必要性に迫られていたのです。
近代化を進めるには、まず立憲政治の実現が欠かせないと考えた政府は、国会開設と憲法制定の準備を始めます。1881(明治14)年の「国会開設の勅諭(ちょくゆ)」によって、1890(明治23)年に国会を開設することが決まり、政党がいくつも結成され、徐々に立憲国家への枠組みができあがっていきました。
伊藤博文が渡欧し、各国の憲法を調査
憲法の条文作成の責任者に任命されたのは、後に日本初の内閣総理大臣となる伊藤博文です。1882(明治15)年、明治政府は伊藤にヨーロッパ各国の憲法調査を命じます。
伊藤は、1年以上かけてイギリスやドイツ、オーストリアなどの国を視察し、各国の実情や憲法に関する知識を学びました。伊藤に知識やアドバイスを授けた法学者として、ウィーン大学のシュタインや、ベルリン大学のグナイストおよびモッセなどが知られています。
また伊藤は、モッセやドイツの法学者レースラーを顧問として日本に招聘(しょうへい)しています。モッセやレースラーは、憲法草案作成に大きく貢献しました。
1889年に憲法発布、1890年に施行
1888(明治21)年、政府は、憲法草案の審議機関として「枢密院(すうみついん)」を設置します。枢密院初代議長となった伊藤を中心に、審議を重ねて草案を完成させ、翌年、明治天皇によって「大日本帝国憲法」が発布されました。なお、施行されたのは、1890(明治23)年11月29日からです。
条文は全部で76カ条あり、主に天皇の権限・国民の権利と義務・帝国議会・司法や会計などの項目に分かれています。しかし、ドイツ人医師ベルツは、自身の日記にて、憲法発布前の国民の騒ぎについて「だが滑稽(こっけい)なことに、憲法の内容を誰も知らないのだ」という内容を記しています。
つまり憲法の内容は、公布まで国民には知らされていなかったと考えられるのです。
▼関連記事はこちら
現行の「日本国憲法」との違い
大日本帝国憲法は、現行の日本国憲法と内容が大きく異なります。主な違いを見ていきましょう。
主権は天皇にあった
大日本帝国憲法のもとでは、政治の主権は「天皇」にありました。立法・行政・司法はもちろん、軍事や予算決定など、国政に関する権限はすべて天皇が持っていたのです。
また、天皇の地位は血筋によって受け継がれるもので、国民は天皇に服従する「臣民(しんみん)」の立場にあるとされました。
一方、日本国憲法では政治の主権は「国民」にあります。天皇の立場は、国および国民統合の象徴に変わり、国民の総意にもとづいて、その地位にあるものとされています。
国民の義務に兵役があった
大日本帝国憲法では、国民の義務として「納税」と「兵役」が規定されていました。実際に、徴兵令という法律によって、原則として満20歳以上のすべての男子に兵役義務が課されていたのです。
日本国憲法では兵役義務は廃止され、納税・勤労・教育が「国民の三大義務」となっています。教育の義務とは、「保護者が子どもに普通教育を受けさせる」義務のことです。「子どもが教育を受ける」義務と誤解しやすいため注意しましょう。
▼こちらの記事も参考に
人権が、法律によって制限されていた
人権にかかわる規定も、大日本帝国憲法と日本国憲法では大きく異なります。大日本帝国憲法のもとでは、人権はあくまでも天皇から授かった「臣民の権利」という扱いです。
そのため、法律の範囲内でのみ、居住・移転・信教・言論・出版などの自由や、私有財産の保護などが保障されていました。
日本国憲法では、人権を最大限に尊重すべき権利として扱っています。人が生まれながらにして持つ権利として保障されており、公共の福祉に反しない限り制限などはありません。
憲法の作成に大きく貢献した伊藤博文
憲法作成に貢献した伊藤博文は、どのような人物だったのでしょうか。エピソードや草案作成にかけた想いを見ていきましょう。
初代内閣総理大臣である伊藤博文
伊藤博文は、1841(天保12)年に長州藩(現在の山口県)の農家の長男として生まれます。父親が武家の養子になったために武士の身分を得ましたが、暮らしは貧しかったようです。成長した伊藤は、吉田松陰(よしだしょういん)が主宰する「松下村塾(しょうかそんじゅく)」で学び、明治維新後は政治家として活躍します。
イギリスに留学した経験を持つ伊藤は、英語が堪能だったこともあり、岩倉使節団の副使に抜擢されます。また、憲法調査から帰国した後は、内閣制度の制定にも携わり、44歳で初代内閣総理大臣に就任しました。
以降も、3回にわたり総理大臣を務めるなど、国政に大きく関与します。しかし、1909(明治42)年、中国のハルビンで韓国の独立運動家・安重根(アン・ジュングン)に暗殺され、68年の生涯を終えました。
伊藤博文の憲法への想いとは
大日本帝国憲法には、草案作成の総責任者だった伊藤の想いがよく反映されているといわれています。「憲法には、君主権の制限と国民の権利の保護が必要」と考えていた伊藤は、枢密院で出た「天皇の権限を規定すべきではないのでは」との意見にもしっかり反論したと伝わります。
最終的に、天皇は憲法を超越する存在ではなく、すべての権限は憲法にもとづいて行使するものと規定されました。伊藤には、天皇を国民の心のよりどころにしたいとの想いもあったようです。
日本には、欧米諸国にとってのキリスト教のような、国の軸となるほどの宗教がなかったため、日本誕生以来、脈々と続く皇室を、国の中心に据えたのではという説もあります。
明治時代に発布された大日本帝国憲法
大日本帝国憲法は、近代化を促進する基盤として制定されました。天皇を主権者とし、国民は法律の範囲内で人権を保障されていたのが大きな特徴です。
制限付きとはいえ、国民の人権が認められた条文を、当時の日本人の多くは好意的に受け止めたと伝わっています。日本初の憲法が生まれた時代背景について親子で話し合ってみると、よい勉強になるでしょう。
あなたにはこちらもおすすめ
構成・文/HugKum編集部