下剋上とは、どのような意味?
「下剋上(げこくじょう)」という言葉を聞いたことはあっても、意味を説明できない人もいるかもしれません。まずは、下剋上の意味を確認しましょう。
身分の低い人が、高い人に打ち勝つこと
下剋上とは、身分の低い人が、高い人に打ち勝つことです。
現代は、職業や収入の違いはあるものの身分の差はなく、人間としてみな平等とされています。しかし、日本の歴史のなかでは、身分の高い「主君」に仕える「家臣」といった、明確な上下関係が存在する時代もありました。生まれながらに身分が決まっている世の中では、たとえ優秀で人望があったとしても主君以上にはなれません。そのような時代背景もあり、主君を滅ぼして自らが権力を握るという「下剋上」の考え方が誕生したのです。
なお、「下克上」と書き表した場合も、「下剋上」と同じ意味になります。
歴史における代表的な下剋上
ドラマ・漫画などをきっかけに、下剋上の言葉を知った人もいるかもしれません。日本の歴史において、特に代表的な下剋上を詳しく解説します。
戦国時代の一因となった「応仁の乱」
下剋上が始まったきっかけは、室町時代の1467(応仁元)年に起きた「応仁(おうにん)の乱」といわれています。応仁の乱が起きたきっかけは、当時の将軍・足利義政(あしかがよしまさ)の後継者をめぐる争いです。
8代将軍・義政は跡継ぎに恵まれず、出家していた腹違いの弟・義視(よしみ)を一般人に戻し、次の将軍にする準備をしていました。弟側も、次期将軍になる決意を固めた翌年、足利義政の妻・日野富子(ひのとみこ)が跡継ぎ候補の男児を出産したことから騒動へと発展します。
騒動が拡大して、応仁の乱が勃発(ぼっぱつ)すると、全国の守護大名が京都に集められました。有力者同士の対立もあって、戦(いくさ)は10年以上続いたことから、不在の守護大名を支える家臣・守護代が少しずつ力をつけはじめたのです。
このような背景から、戦乱の世に乗じて主君から権力を奪う「下剋上」が日本各地で頻発(ひんぱつ)したといわれています。下剋上で権力を手にした守護代は、「戦国大名」と呼ばれる新たな地位を築きました。
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織田信長が自害したとされる「本能寺の変」
「応仁の乱」を機に、全国的な影響力を失っていた室町幕府を滅ぼし、天下をとったのが織田信長(おだのぶなが)です。しかし、室町幕府を滅亡させた信長もまた、家臣・明智光秀(あけちみつひで)が起こした「本能寺(ほんのうじ)の変」によって命を落としたと考えられています。
1582(天正10)年の「本能寺の変」は、羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)を援護する目的で京都の本能寺に立ち寄った織田信長が、明智光秀に襲われた事件です。命令に背いた明智光秀が本能寺に兵を出し、対抗し切れなくなった信長が自害したといわれています。
しかし「三日天下(みっかてんか)」といわれるように、下剋上で信長を死に追いやった光秀が権力を握ったのは、わずかな期間でした。農民から殺害された、自害したなど、明智光秀の最期にはさまざまな説が残されています。
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下剋上を果たした歴史上の人物
戦国時代の乱世に乗じて、下剋上を果たした武将もたくさんいました。4人の戦国大名たちの下剋上を、それぞれ見ていきましょう。
三好長慶
室町幕府の有力者・細川晴元(ほそかわはるもと)に仕えていた三好長慶(みよしながよし)は、下剋上のきっかけともいえる人物です。
長慶は、対立していた主君の晴元を追放し、さらに13代将軍・足利義輝(よしてる)をも追い出します。近畿地方8カ国を支配し、家臣から主君の座に成り上がる「下剋上」を果たしました。
長慶の成功は、全国的な影響も大きく、日本各地で下剋上が頻発するようになったといわれているほどです。一方で、長慶の晩年には、家臣の松永久秀(まつながひさひで)が力を伸ばし、死後には権力を奪われています。
朝倉孝景
朝倉孝景(あさくらたかかげ)は、現在の兵庫県北部にあった但馬国(たじまのくに)出身という説のある武将です。南北朝時代に越前国へと移り、甲斐(かい)氏・織田(おだ)氏とともに主君の斯波(しば)氏に仕えました。
斯波氏は室町幕府をつくった足利尊氏(たかうじ)との関わりが深く、細川氏・畠山(はたけやま)氏とともに将軍の次に高い地位「三管領(さんかんれい)」を与えられた一族です。
東軍と西軍が戦った「応仁の乱」で、孝景は斯波氏とともに西軍について活躍しました。しかし、越前の守護代への任命を条件に、主君を裏切って東軍へと寝返ります。
応仁の乱で戦国大名にのし上がった朝倉氏は、以後、約100年にもわたって越前を支配しました。
北条早雲
50歳を過ぎてから戦国大名に上り詰めた北条早雲(ほうじょうそううん)は、仕える主君がいない「素浪人(すろうにん)」の出身とされています。失職状態の武士を指す素浪人から戦国大名へと成り上がった早雲は、下剋上の典型ともいえる人物です(室町幕府の政所執事説もある)。
素浪人だった早雲が出世したきっかけは、今川氏の家臣の間で起きた今川龍王丸(りゅうおうまる)と小鹿範満(おしかのりみつ)の跡継ぎ争いです。「龍王丸が成人するまでは範満が当主になる」という和解案で争いを終わらせた早雲は、今川氏の守護代に任命されます。
少しずつ力をつけた早雲は、各地で起きた下剋上をチャンスにして相模(さがみ)の地を狙います。相模の地を拠点にしていた三浦氏を、長期戦の末に滅ぼし、戦国大名になったのです。
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斎藤道三
現在の岐阜県あたりにあった美濃国(みののくに)を支配した斎藤道三(さいとうどうさん)は、油商人から戦国大名へと成り上がった人物です。妻との結婚後、油商人をしていた道三は、販売パフォーマンスのうまさから美濃の有名人になりました。
名前が知れ渡ったことで守護大名・土岐(とき)家の守護代・長井氏から気に入られ、長井家の家臣に任命されます。しかし、野心家の道三は、守護代の家臣では満足せず、主君・長井家の当主を討ったのです。守護大名・土岐家の家臣へ出世した後には、主君の土岐頼芸(ときよりのり)を追放し、自らが美濃国を支配しました。
下剋上の意味や、歴史上の動きを理解しよう
身分の低い人が高い人から権力を奪う「下剋上」が始まったきっかけは、1467(応仁元)年に起きた「応仁の乱」です。室町幕府を滅ぼした織田信長が自害した「本能寺の変」も、家臣・明智光秀による下剋上がきっかけと考えられています。
約100年続いた戦国時代には、日本各地で家臣による下剋上が起こり、成り上がりの「戦国大名」も誕生しました。ただ、主君から権力を奪った戦国大名の多くは、自らも家臣の裏切りで衰退しています。
戦国時代に限らず、人類の歴史は「攻める」「攻められる」ことの繰り返しです。言葉の意味とあわせて戦国大名ごとの下剋上を学んでみると、歴史の流れをより理解しやすくなるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部