治安維持法とは、どのような法律?
「治安維持法(ちあんいじほう)」は、治安、つまり社会の秩序や安全が保たれている状態を維持するためと称し、社会主義運動などを取り締まる目的で作られた法律です。1925(大正14)年に制定され、1945(昭和20)年に撤廃された治安維持法について見ていきましょう。
目的は、天皇を中心とした国体の維持
治安維持法は、「普通選挙法」とともに成立した法律です。普通選挙法と治安維持法は、アメとムチに例えられます。
普通選挙法の施行(しこう)前は、一定額の直接国税を納めた25歳以上の男性にしか選挙権が与えられない「制限選挙」でした。しかし普通選挙法により、納税額の条件が撤廃されます。民主主義的改革を求める「大正デモクラシー」の気運が高まるなか、大きな一歩でした。
一方で、治安維持法も施行されます。目的は、自由な思想を封じ、天皇を中心とする国のあり方「国体(こくたい)」や、土地や工場などを含むすべての財産の私有とその所有権が、法律などによって保障される制度である「私有財産制」を否定する活動、つまり主に社会主義・共産主義運動を取り締まることでした。
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厳しい思想弾圧の根拠・手段となる
当初、治安維持法は主に社会主義者や、その結社である「日本共産党」などを取り締まることが目的でした。しかし、徐々に反政府的な言動や労働問題に関する活動も対象となっていきます。
内容も、たびたび改正されました。1928(昭和3)年の改正では、それまで懲役10年だった最高刑が「死刑」となっています。
1941(昭和16)年には、実際に行動を起こしていなくても、疑わしければ罰することができるとされました。令状なしの捜索や、拷問(ごうもん)を伴う過酷な取り調べも行われたほどです。さらに、逮捕され刑期を終えても活動を再開する恐れがあると判断すれば、予防拘禁所に留めおくことも可能でした。
思想や活動弾圧の根拠・手段として利用された治安維持法は、1945(昭和20)年の日本の敗戦に伴い撤廃されます。
治安維持法は、なぜ制定された?
治安維持法の目的は、「天皇制」という国のあり方である国体を守り、社会主義運動の広がりを抑えることでした。しかし、なぜ制定する必要があったのでしょうか。その背景を探ってみましょう。
経済格差による国民の不満増大
当時の日本は、日清(にっしん)・日露(にちろ)戦争の勝利、韓国併合(かんこくへいごう)など国威は高まっていました。しかし、その一方で国民の間では経済格差が広がっていたのです。
労働環境や賃金などに不満を持つ労働者が増え、1912(大正元)年の「友愛会(ゆうあいかい)」を皮切りに、労働者の権利を守ることを目的としたさまざまな団体が結成されます。1920(大正9)年には労働者が集結し、改善の要求や権利を主張する第1回「メーデー」も決行されました。
また、社会主義やキリスト教的思想に基づいて、平等を求める活動家や政党も登場します。
社会主義思想の広まりと普通選挙の実現
労働者による活動の活発化とともに、政府は1917(大正6)年10月の「ロシア革命」に伴う社会主義国家の誕生、1925(大正14)年の「日ソ国交樹立」などの影響を受けて、社会主義が広まることを恐れました。
1924(大正13)年、普通選挙法の成立を公約に掲げた加藤高明(かとうたかあき)内閣が発足します。25歳以上の男性すべてに選挙権を与えることで、有権者はそれまでの4倍になりました。治安維持法が同時に施行されたのは、社会運動の激化や選挙への影響が懸念(けねん)されたためです。
1928(昭和3)年、初めて行われた普通選挙は内閣に危機感を抱かせました。社会民衆党・労働農民党など、戦前における合法的社会主義政党である「無産政党(むさんせいとう)」の8人が当選したのです。この結果は、社会主義の台頭を抑えるための治安維持法改正につながりました。
治安維持法の影響
後年、「悪法」と呼ばれた治安維持法によって、多くの社会主義者や活動家が弾圧されました。主な内容を解説します。
多くの社会主義者が弾圧される
治安維持法に基づく弾圧として、よく知られているのが「三・一五事件」です。普通選挙実施直後の1928(昭和3)年3月15日、全国で約1,600人の日本共産党員が検挙されました。さらに翌1929(昭和4)年4月16日には、日本共産党員と支持者約300人が検挙された「四・一六事件」も起きています。
特高(とっこう、特別高等警察:戦前に存在した秘密警察)による、過酷な拷問により獄死した人も少なくありませんでした。「三・一五事件」を題材にした小説「一九二八年三月十五日」を書いたプロレタリア作家の小林多喜二(こばやしたきじ)も、1933(昭和8)年に逮捕され、拷問によって死亡しています。
軍国主義強化の手段にも
治安維持法の施行から約10年で、社会主義・共産主義者を取り締まるという目的は、ほぼ達成されました。言い換えれば、取り締まる対象がいなくなったということです。
1941(昭和16)年、治安維持法は再び改正され、軍部に対する批判や反戦活動も取り締まりの対象になりました。思想・言論・芸術など、さまざまな分野が、治安維持法の拡大解釈による「こじつけ」のような理由で弾圧されるようになります。
また、治安維持法違反で逮捕された場合、弁護人が制限され、控訴もできなくなりました。さらに「転向(てんこう)」、つまり思想や立場の放棄を拒む人には長期間にわたる拘禁も行われます。
最終的な逮捕者は、数十万人ともいわれる
1945(昭和20)年に治安維持法が撤廃されるまでの約20年間で、数十万人が逮捕されました。そのうち約7万5,000人が送検され、約2,000人が拷問によって虐殺されたり、病気などで獄死したといわれています。日本共産党員や社会主義者だけでなく、小説家や画家などの文化人や学者・宗教者等その対象はさまざまです。
戦後、治安維持法によって逮捕されたり亡くなったりした人たちに対する補償を求める動きが起こりました。戦後60年以上を経た2002(平成14)年の第154回国会でも、参議院から請願が出されています。「過去のこと」では済まされない重みが感じられます。
治安維持法の問題点を知ろう
治安維持法は、名称だけを見れば「人々の平穏な生活を守る」法のような、よい印象があるかもしれません。しかし実際は、自由な思想や活動を抑制する内容でした。後には改正され、特定の思想や団体を弾圧する根拠にもなっています。その結果、多くの人々が逮捕されたり、命を落としたりしました。
現在では「悪法」といわれる治安維持法の内容や背景を知って、自由を抑制されない世の中を守っていきたいものです。
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構成・文/HugKum編集部