「サンフランシスコ平和条約」とは? 締結国と内容から、日本の領土や安全保障の問題を確認【親子で歴史を学ぶ】

サンフランシスコ平和条約は、現在の日本の領土や安全保障を決定づけた重要な条約です。第二次世界大戦敗戦国の日本は、この条約によって独立を果たし、国際社会に復帰しました。条約の内容や締結までの流れを分かりやすく解説します。
<上画像:講和桜之碑(東京都大田区下丸子)。サンフランシスコ講和条約を記念して植えられた桜の古木とともに>

サンフランシスコ平和条約の概要

「サンフランシスコ平和条約」は、いつ、どのように結ばれたのでしょうか。条約の目的や締結国など、概要を紹介します。

第二次世界大戦後の対日講和条約

サンフランシスコ平和条約は、1951(昭和26)年9月8日に、日本と第二次世界大戦連合国との間で結ばれた講和条約です。正式名称は「Treaty of Peace with Japan(日本国との平和条約)」といいます。

1945(昭和20)年に「ポツダム宣言」を受諾(じゅだく)して無条件降伏した日本は、その後、アメリカ軍を主体とする連合国軍の占領下に置かれました。サンフランシスコ平和条約は、連合国が日本の占領状態を終わらせ、独立国とするために用意した講和条約です。

サンフランシスコ平和条約に署名する吉田茂と日本全権委員団 Wikimedia Commons(PD)

全面講和ではなかった

サンフランシスコ平和条約には、アメリカ・イギリスなど連合国と日本を合わせた49カ国が調印しています。ただし、一部の対戦国が参加しなかったため、全面講和とはならず、片面講和と呼ばれました。

9月4日から行われた講和会議には、日本を含め52カ国が参加しましたが、そのうちソ連・ポーランド・チェコスロバキアは署名を拒否しています。

インド・ビルマ(現在のミャンマー)・ユーゴスラビアは会議自体を欠席、中国と台湾は招待されませんでした。韓国も日本の対戦国ではなかったため、除外されています。

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サンフランシスコ平和条約で決まったこと

サンフランシスコ平和条約では、日本の主権回復に伴い、二つの項目が定められます。それぞれの内容を見ていきましょう。

日本の領土について

現在の日本の領土は、条約の第2章に定められています。主な取り決めは以下の通りです。

●日本は朝鮮の独立を認める
●日本は台湾・南樺太(みなみからふと)・千島(ちしま)列島などを放棄する
●沖縄・奄美(あまみ)諸島・小笠原諸島をアメリカの管理下に置く

アメリカの管理下にあった島々は、すでに日本に返還されています。しかし放棄した領土の範囲については、ロシア・韓国・中国と、日本との間で解釈が分かれています。

ロシアは「北方領土(択捉<えとろふ>島・国後<くなしり>島・色丹<しこたん>島・歯舞<はぼまい>群島)」、韓国は「竹島(たけしま)」、中国は「尖閣(せんかく)諸島」を日本が放棄した領土に含まれると主張し続けており、現在も解決にいたっていません。

野付(のつけ)半島から見える国後島。太平洋戦争終戦時には、約1万7000人余の日本人が住んでいた。サンフランシスコ平和条約に記された千島列島には、北方四島は含まれていない。雪に覆われた山は「泊山」(535m)。

参考:内閣府|日本国との平和条約(抄)

日本の安全について

日本の安全を守る取り決めも、重要な項目の一つです。第3章において、日本は個別的・集団的自衛権を持ち、集団安全保障条約に参加できるとされました。

ただし、日本は憲法の下で武装解除しており、自衛権を行使する手段がありません。そこで日本とアメリカとの間で「日米安全保障条約」を締結し、アメリカ軍を日本に駐留させることが決まったのです。

現在も、日本にアメリカ軍の基地があるのは、日米安全保障条約が根拠となっています。

サンフランシスコ平和条約調印までの流れと、その後

サンフランシスコ平和条約が調印された場所、記念オペラハウス(サンフランシスコ)。Photo by Sanfranman59, Wikimedia Commons

サンフランシスコ平和条約は、どのようにして成立したのでしょうか。講和できなかった国との関係もあわせて解説します。

アメリカとソ連の対立が激化

第二次世界大戦が終わった後、世界は大きく「西側(アメリカを中心とする資本主義諸国)」と「東側(ソ連を中心とする社会主義諸国)」とに二分され、対立が激化します。

日本の植民地支配から解放された朝鮮でも、社会主義の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と、資本主義の大韓民国(韓国)が成立し、対立していました。

1950(昭和25)年、北朝鮮が半島の統一を目指して韓国に侵攻し、「朝鮮戦争」が起こります。アメリカは韓国を支援するために軍を派遣しますが、北朝鮮には同じ社会主義国家の中国が参戦したため、戦線は膠着(こうちゃく)しました。

そこで西側諸国は、日本を独立させて資本主義国とし、アジアの社会主義化を食い止めようと考えたのです。

当時の首相・吉田茂が締結を推進

西側諸国がアジアにおける日本の役割を重視したことは、主権回復を目指していた日本政府にとっても好都合でした。

先述の通り、サンフランシスコ平和条約は全面講和ではないため、国内では締結に反対する意見も出ています。とはいえ、アメリカとソ連・中国が対立している状況で全面講和を目指すのは、現実的ではありません。

当時の吉田茂(よしだしげる)首相は、反対意見を退けて条約締結を推進、日本代表として講和会議に出席します。平和条約に署名した当日、日米安全保障条約にも署名し、念願の独立を果たしました。

吉田茂の銅像(神奈川県中郡大磯町)。旧吉田茂邸の南側、眼下に海を臨む高台に設置され、その顔は日米講和会議の地・サンフランシスコを向いているという。大磯城山(おおいそじょうやま)公園内にある旧吉田邸の「兜門」は、別名「講和条約門」ともいわれる。

条約締結後の動き

条約締結後、日本は不参加国との間で個別に国交を回復させていきます。1952(昭和27)~1954(昭和29)年には、台湾・インド・ビルマとそれぞれ平和条約を締結しました。

1956(昭和31)年には「日ソ共同宣言」によってソ連と国交を回復し、ソ連の反対で実現できなかった「国際連合」への加盟を果たします。中国とは1972(昭和47)年の「日中共同声明」で国交正常化に合意、1978(昭和53)年に「日中平和友好条約」が締結されました。

韓国とは1965(昭和40)年に「日韓基本条約」を締結しています。ただし、そのとき、日本が韓国を「朝鮮半島唯一の政権」と認めたため、北朝鮮との国交は現在も正常化されていません。

日本が独立を果たしたサンフランシスコ平和条約

サンフランシスコ平和条約によって、日本は占領状態から脱し、独立国として再スタートします。とはいえ、アメリカを中心とする西側諸国の思惑が強く反映された内容に、賛同しない国もありました。

その影響は大きく、未だにいくつかの領土問題が残っているほどです。サンフランシスコ平和条約について親子で学び、国際社会における日本の現状理解に役立てましょう。

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構成・文/HugKum編集部

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