▶︎前編はこちら 「学校は『何のためにやるのか』を忘れている」
体育祭の目標は「全員が楽しむこと」
前回は「目的と手段」をテーマに、定期試験を廃止した理由などを伺いました。そのほかの工藤先生の改革で、松丸さんが印象に残っているものはありますか?
松丸 工藤先生の本に書かれていた体育祭の話が印象的でした。麴町中学では、全員を楽しませることを目標に掲げて、「どんな生徒も楽しめる体育祭」を目指して、子どもたちがプログラムを決め、運営も担うんですよね。
工藤 はい、そうです。学校で教師がこうしようと決めると、子どもたちは与えられた目標を実現しようします。例えば「優勝を目指す」と言われたら、「そのために団結しよう!」と言われたりしますよね。
松丸 ありがちですね。
工藤 それで、教員も子どもたちが一生懸命頑張った姿を褒め称える。でも、「そもそも体育祭ってなんのためにやってるの?」ということなんです。それを考えず、なんとなく思いついた成功を目指して、疑いもせずやるわけですよね。そのしわ寄せが、運動が苦手な子やクラスで孤立しているような子どもたちにいくわけです。
松丸 わかります。僕も体育祭が好きじゃなかったんですよ。通っていた学校(麻布中学・高校)は自由な校風で体育祭も強制参加ではなかったので、体育祭の日は学校を休んで、友達とカラオケに行っていました。でも、麹町中のように、どうやったらみんなが参加して楽しい体育祭にできるかということを生徒主体で考えられていたら、僕も参加したかったと思いました。
「全員がOK」を実現するのは「対話」
工藤 私はそれで、体育祭を含めてそれまで教員が仕切っていた行事を子どもたちに任せればいいんじゃないの? と考えました。そうしたら責任が伴うので、子どもたちもどうしたらいいのか真剣に考えますよね。子どもの手に委ねる時に大切なのが、「全員がOK」な目標になっているかということです。誰ひとり置き去りにしない目標にしなければいけない。
松丸 なるほど。誰ひとり置き去りにしない「全員がOK」な目標を決めるのって、大人の世界でもすごく大変そうな気がします。どういう方法があるのでしょうか?
工藤 必要なのは「対話」です。対話をすると、みんなの価値観が違うからぶつかり合いが起こります。そこには痛みが伴うけれど、その対話が子どもたちの大切な学びになるんです。結果的に、麴町中学では「全員がOK」な目標として定まったのが「全員が運動を楽しむ」でした。それを最上位に据えると、子どもたちは自ら目標を実現するための手段を考え始めます。
松丸 おもしろい! 「優勝を目指す」のと「運動を楽しむ」のはまったく別物ですよね。「運動を楽しむ」体育祭なら、運動が嫌いな子も苦手な子も興味を持ちそう。工藤先生が「対話」を重視する考えを持ったのは、何かきっかけがあるんですか?
工藤 実は私も高校が自由なところで、文化祭も体育祭も行きたくなかったら行かない、授業の途中で教室を出ても何も言われないという環境で育ちました。その高校時代が今の自分のベースにあると思います。
松丸 そのなかで、「対話」を重視するようになる経験をしたということですね。
工藤 私が高校生のころは政治的な動きが激しい時代だったこともあって、高校生が集まったら政治や経済の話をしながら、世の中がどうなるのか、どうあるべきか、授業中でも、放課後でも、激論を交わしていました。
松丸 え! 今の時代からは想像もつきません。
工藤 それが日常だったんですよ。そうやって真面目に議論をしていると、考え方がみんな違うし、いろいろ問題のある発言も出てくる。考え方の違う相手との議論はイライラするけど、とことん考え抜いて話し合うのは刺激だったし、考え方が違うからこそ対話が必要だと気がついた。今、私が「対話が大切」だというのは、その経験が原点にあります。
考え方の違いと感情の対立は切り分ける
松丸 工藤先生の話を聞いて、思い出したことがあります。僕は東大に入ってから、ナゾトキのサークルの代表を務めていました。他大学の生徒も加入できるサークルで、イベントを開催する時にはみんなで問題を作ります。すると、自分がおもしろいと思うアイデアでも他の人にとってはおもしろくないときがあって、そういうときはバトルが発生するんです。そのバトルにとことん弱いのが、東大の学生でした。話を聞くと、意見を闘わせるのが怖いと言うんです。
工藤 なるほど。
松丸 それが僕が感じた文化のギャップです。僕が中高で通った麻布は自由な学校だったので、その分、自分が何かをやろうとするときに議論をしたり、批判されたりするのは当たり前でした。その経験で、コトを批判されてもヒトを批判されているわけではないことを学びます。でも、対話や議論に慣れていないと、人間として批判されたと思ってしまったり、間違ったことを言うとダメだと思い込んで、自分の意見を言わなくなる。議論の最低限の基礎を知らないまま大人になってしまうのは大きな問題だと思いました。
工藤 それはまさに、私が教育の世界で指摘していることです。考え方の違いにぶち当たると人間はイライラするものだけど、考え方の違いと感情の対立は切り分けなきゃいけない。それこそを学校では教えるべきです。この前提がないと、対話が成り立ちません。
松丸 大勢の人に共感されない意見を言ったとして、それで人格攻撃を許してしまうと、発言にひとつのミスも許されない社会になってしまいますよね。最近、特にそれがひどくなっている気がしています。対話は学校でも、社会においてもとても重要ですが、議論されているのは「何が」であって「誰が」じゃない。考え方と感情の対立は切り離す。これは、いつか自分に子どもができたら、しっかり教えなきゃいけないことだと思いました。
工藤 学校で対話を導入するには、教員の意識改革が必要です。私は学校で講演をするときに先生たちに「多数決を使っていますか?」とよく聞きます。日本の小学校ではいまだによく使われているんですけど、多数決は少数の意見は無視するということと同じで、「マイノリティーを切り捨てろ」と教えているわけです。本質的な対話を避けてこういう教育をしているから、今のような世の中になってしまった。対話は、痛みを伴うものです。それでも全員で合意して目標を決めたら、そこに向かって協力し合う。そういう教育を広めたいですね。こういう考え方はいまだに日本の教育界で主流ではないんですが。
松丸 早く、工藤先生がやってきたことが当たり前になる時代になってほしいと思います。
▶︎つづきはこちら「子どもの自己肯定感を高める3つの言葉とは?」
取材・文/川内イオ 写真/五十嵐美弥(本誌) ヘアメイク(松丸)/大室愛 スタイリング(松丸)/飯村友梨
プロフィール
プロフィール
東京大学に入学後、謎解きサークルの代表として団体を急成長させ、イベント・放送・ゲーム・書籍・教育など、様々な分野で一大ブームを巻き起こしている”謎解き”の仕掛け人。現在は東大発の謎解きクリエイター集団RIDDLER(株)を立ち上げ、仲間とともに様々なメディアに謎解きを仕掛けている。監修書籍に、『東大ナゾトレ』シリーズ(扶桑社)、『東大松丸式ナゾトキスクール』『東大松丸式 名探偵コナンナゾトキ探偵団』(小学館)『頭をつかう新習慣! ナゾときタイム』(NHK出版)、など多数の謎解き本を手がける。
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