マラトンの戦いとは
「マラトンの戦い」は、いつ、どこで起こったのでしょうか。まずは、戦いの背景や時期について見ていきましょう。
ペルシア戦争中の戦いの一つ
マラトンの戦いは、「ペルシア戦争」と呼ばれる大きな戦争の中で起こった戦いの一つです。ペルシア戦争は、紀元前5世紀に、ペルシアがギリシャに侵攻した出来事(紀元前500~紀元前449年)です。
当時のペルシアは、現在のトルコ全域を含め、東はインド国境から西はエジプトの一部までを支配する大国(たいこく)でした。一方のギリシャにも、アテネやスパルタといった、高度な文明と軍事力を持つ都市が集まっていました。
ペルシア王は、領土拡張計画の一環として、豊かなギリシャに目を付け、4度にわたって侵攻を試みたのです。
いつ、どこで起きた?
マラトンの戦いが起きたのは、紀元前490年です。その名の通り、ギリシャの都市・マラトンで起こりました。
ペルシアは、紀元前492年に最初のギリシャ侵攻作戦を実行しましたが、暴風雨に見舞われたため、大きな戦果もなく撤退します。そして2年後、態勢を整え、アテネに向けて本格的に侵攻を開始しました。
遠征軍は、アテネの北東40kmほどの場所にあるマラトンに上陸し、戦いが始まったのです。
マラトンの戦いの流れ
ペルシアの軍は、なぜ、マラトンを上陸地に選んだのでしょうか。開戦から終結まで、戦いの流れを見ていきましょう。
マラトンの戦いが起こった経緯
ペルシア軍がマラトンに上陸した理由は、「ヒッピアス」の助言といわれています。
ヒッピアスは、かつてアテネを支配していましたが、弟が暗殺された事件をきっかけに、暴君となり、スパルタ軍にアテネを追われてしまいました。
ペルシアに身を寄せていた彼は、第2次遠征軍に同行し、ペルシア軍の騎兵が有利に動ける場所として、マラトンを勧めたとされています。
しかしマラトンでは、騎兵は、まるで活躍できませんでした。このためペルシアに亡命した後も、ヒッピアスは密(ひそ)かにアテネの勝利を願い、ペルシア軍をマラトンに誘導したのではないかという説もささやかれています。
勝ったのは、劣勢だった「アテネ」
マラトンの戦いでは、ペルシア軍はアテネ軍の1.5~2倍の人数で攻め寄せたとされています。ところが勝利したのは、劣勢だったアテネ側でした。
ペルシアの軍勢は、「軽装歩兵」「重装歩兵」「騎兵」の三部隊でやってきます。当時の陸上戦では、重装歩兵が攻撃の中心で、軽装歩兵と騎兵は、彼らを援護する役割を担っていました。そこで、兵力の少ないアテネ軍は、ほぼすべての兵を重装歩兵として、守りが手薄な軽装歩兵と騎兵を奇襲したのです。
またアテネ軍には、自分たちの家族や土地を守らなければならないとの、強い思いがありました。王の支配欲のため、仕方なく戦争をしているペルシア兵には、そのようなモチベーションはありません。長い遠征で疲労もたまり、士気は低下していました。
士気の高いアテネ兵が、弱いところを突いて攻撃した結果、ペルシア軍は完敗します。多くの戦死者を出し、船を7隻も奪われるほどの有様でした。
マラトンの戦いで活躍した人物
アテネ軍を勝利に導いた功労者は、「ミルティアデス」という名の将軍です。アテネ軍は、当時、10人の将軍が日替わりで指揮にあたっていました。
ミルティアデスは、軍議でスパルタからの援軍を待つべきとの意見に反対し、攻撃に転じるべきと主張します。そして自分に指揮する順番が回ってきたときに、重装歩兵を率いて奇襲をかけ、見事にペルシア軍を撃退したのです。
さらに彼は、撤退したペルシア軍が、船でアテネを襲うと予測し、兵をまとめてアテネに向かいます。少し遅れてアテネ沖に到着したペルシア軍は、敗れたばかりの相手に立ち向かう気力を失い、そのままペルシアへ引き返しました。
「マラトンの戦い」と「マラソン」の関係
マラトンの戦いには、「マラソン」の起源となったエピソードがあります。マラトンの戦いと、マラソンとの関係を見ていきましょう。
勝利を伝えたという故事が由来
マラソン誕生のきっかけとなったのは、アテネ軍の兵士がとった行動にあります。
その兵士は、アテネで待つ人々に、一刻も早くマラトンの戦いの勝利を伝えようと、重い装備のまま走り続けましたが、勝利を告げた途端に力尽きてしまいました。
彼の功績をたたえ、マラトンからアテネまでの距離である「40km」を走る競技=マラソンが生まれたとされています。
ただし、マラトンの戦いを記録した歴史書(ヘロドトス『歴史』)に、このような記述はなく、近代オリンピックの第1回アテネ大会(1896)で語られた神話に過ぎない、との説が有力です。
マラソンが42.195kmになった理由
マラソンコースの距離は、最初から42.195kmだったわけではありません。オリンピックが始まった当初は「約40km」であればよく、大会によって距離が違いました。
42.195kmが初めて採用されたのは、第4回ロンドンオリンピック(1908)です。計画では42kmでしたが、イギリス王妃アレクサンドラが観戦するために、スタートとゴールを移動させた結果、距離が延びたとされています。
選手は、予定より200m弱長く走ることになりましたが、本番で1人の選手に悲劇が起こります。トップを走っていたイタリア人選手「ドランド・ピエトリ」が、ゴール直前で体力を使い果たし、倒れてしまったのです。
ドランドは、係員に助けられ何とかゴールを果たしますが、結果はもちろん失格です。しかし、彼の懸命な姿は観客を感動させ、「ドランドの悲劇」として語り継がれます。
第8回のパリオリンピック(1924)以降、マラソンの距離を固定することが決まり、ドランドの悲劇を忘れないためにと42.195kmが採用されました。
アテネが勝利を収めたマラトンの戦い
マラトンの戦いは、圧倒的に不利な状況からアテネが勝利した、劇的な出来事でした。指揮官の采配(さいはい)もさることながら、戦いに臨んだ兵士たちの必死の思いが、勝利を呼び寄せたのでしょう。
兵士が朗報を早く届けようと、過酷な距離を走り抜いた伝説も、当時の様子を知れば事実のように思えてきます。マラソンランナーに兵士の姿を重ね合わせると、より感動できるかもしれません。子どもにも、マラトンの逸話を伝え、一生懸命走る選手に声援を送ってみるのもよいでしょう。
構成・文/HugKum編集部