方丈記とは
「子どもから『方丈記(ほうじょうき)』について尋ねられ、すぐに答えられなかった」「方丈記について、習ったはずなのに覚えていない」などと感じたことはありませんか。
方丈記がどのような作品なのか、著者の生涯とあわせて確認していきましょう。
鴨長明が鎌倉時代に著した随筆
「方丈記」は、鎌倉時代初期を代表する歌人「鴨長明(かものちょうめい)」が1212(建暦2)年に著した随筆です。随筆とは、身の回りの出来事や感じたことをありのままに表現した文章で、現代でいうエッセイにあたります。
方丈記そのものにはピンとこなくとも、冒頭の名文「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を見聞きした覚えがある人は多いのではないでしょうか。
方丈記の内容のベースとなっているのは、当時、頻発(ひんぱつ)していた災害や、自身の不遇な境遇からくる「無常観」です。「世の中に移り変わらないものはない」という世の無常が巧みに表現された名作として、日本三大随筆の一つに数えられています。
鴨長明の生涯
鴨長明は、下鴨(しもがも)神社の禰宜(ねぎ)・鴨長継(ながつぐ)の次男として1155(久寿2)年頃に生まれました。
恵まれた幼少期を過ごした長明ですが、父の急死によって、その人生は暗転します。すでに母を亡くしていた長明は、後継争いを勝ち抜けるだけの後ろ盾がありませんでした。結果として神職への道を絶たれ、和歌で生計を立てることになるのです。
50歳頃、後鳥羽院から推挙の内意を得て、再び巡ってきた神職を得るチャンスを、当時の禰宜の妨害によって失った長明は、出家の道を選びます。
各地を巡った長明は、最終的に、京都の日野に小さな庵(いおり)を建てて定住しました。この庵は、一辺の長さが1丈(約3m)で、1丈四方の正方形を「方丈」ということから「方丈庵」と名付けられました。
方丈庵にて、方丈記を著した長明は、1216(建保4)年に死去したとされています。
方丈記の執筆のみならず、和歌の名手として「新古今和歌集」にも名を残すほど、文化的な素養にあふれた人物でした。
記録文学としても評価が高い
優れた随筆として広く知られる方丈記は、実は記録文学としても高い評価を得ている作品です。
というのも、方丈記には、当時の世を騒がせた出来事が、その時代を生きた鴨長明自身によって詳細に語られているからです。以下、方丈記に記されている主な出来事を紹介していきましょう。
・安元の大火(1177)
・治承の辻風(1180)
・養和の飢饉(1181)
・元暦の大地震(1185)
これらの災害や飢饉にくわえて、市井の人々の暮らしも記されている方丈記は、当時を知る資料としても高く評価されているのです。
方丈記が書かれた頃の時代背景
方丈記の根底に流れる無常観は、当時の世相が強く反映されています。方丈記が記された当時の時代背景を確認していきましょう。
平氏の興隆と衰退
鴨長明が生きたのは、時代区分でいうと平安後期から鎌倉初期にあたる時代です。「貴族」が政治の中心だった時代から「武士」たちが台頭する時代へと、世の中が大きく変化していく時期でした。
まず、保元の乱(1156)と平治の乱(1159)を経て、武士の中で平清盛(たいらのきよもり)率いる平家が興隆します。その勢いは、当時の実力者である後白河(ごしらかわ)上皇をも凌(しの)ぐといわれました。
その後、出家した後白河上皇は法皇となり、勢いを増してゆく平家との対立を深めていきます。1180(治承4)年には、後白河法皇の息子である以仁王(もちひとおう)が平家討伐の令旨(りょうじ)を発しました。木曽義仲(きそよしなか)・源頼朝(みなもとのよりとも)・源義経(よしつね)らの活躍のもと、1185(元暦2)年の壇ノ浦(だんのうら)の戦いをもって平家は滅亡します。
平家の台頭から滅亡までの期間は、わずか30年ほどに過ぎません。その栄華と衰退を目の当たりにしつつ、激動の時代の中で鴨長明は青年期を過ごしていたのです。
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改元が繰り返される落ち着かない世情
鴨長明が生きた時代は、激しく改元(元号を変えること)が繰り返される時代でもありました。長明が生きた60年ほどの間に、実に23回もの改元が行われています。
当時の改元は、天皇の即位や将軍の就任とともに行われる「代始(だいはじめ)改元」、大きな災害が起きたときに行われる「災異(さいい)改元」、特定の干支の年に行われる「革年(かくねん)改元」など、さまざまなパターンがありました。
特に災害が多い時代だったことから、23回の改元のうち、半数を超える13回が災異改元だったとされています。
頻繁に改元が行われる落ち着かない社会情勢の中で、人々は先が見えない不安を強めていきました。この不安が無常観を生み、長明の手による方丈記の誕生へとつながっていくのです。
方丈記とともに語り継がれる日本の三大随筆
方丈記と並び、日本三大随筆に名を連ねるのが「枕草子(まくらのそうし)」と「徒然草(つれづれぐさ)」です。それぞれの著者や内容・特徴を見ていきましょう。
清少納言の「枕草子」
「春はあけぼの」の冒頭で知られる「枕草子」は、有名な歌人として知られる清原元輔(きよはらのもとすけ)の娘、清少納言(せいしょうなごん)によって平安中期頃に著された随筆です。
当時の清少納言は、一条天皇の皇后である藤原定子(ていし)に女房として仕えていました。当時、皇后に仕える女房には、高い知性や教養が求められたことから、清少納言は非常に頭の良い人物だったといわれています。
約300段の章段でつづられた枕草子の内容は、特定のテーマについて記す「類聚(るいじゅう)的章段」、季節や自然などについて記す「随想的章段」、日々の出来事について記す「日記的章段」の三つに分かれています。
日本三大随筆の一つであると同時に、平安時代を代表する文学作品といえるでしょう。
兼好法師の「徒然草」
方丈記・枕草子と並ぶ日本三大随筆の一つが、兼好法師(けんこうほうし)こと卜部兼好(うらべかねよし)の「徒然草」です。
神官の子として生まれた兼好法師は、若くして頭角を現します。20歳頃には宮廷に仕える身となりますが、30歳頃に出家の道を選び、世捨て人として生きることになりました。
出家の具体的な理由としては、「出世の道が絶たれた」「天皇の崩御」などさまざまな説がありますが、本当のところは定かではありません。
徒然草は、兼好法師が自身の経験や考えを自由に記した随筆です。ユーモアや皮肉を交えた独特の親しみやすい語り口は、徒然草が現代に至るまで色あせることなく高く評価されている理由の一つといえるでしょう。
おもしろい中世文学に興味を持ってみて
方丈記と聞いて、つい「ハードルが高そう」「難しそう」と感じてしまう人は多いのではないでしょうか。しかし、方丈記は、当時の世相や価値観、出来事などを楽しみながら学べる、価値ある文学作品です。
「昔のものだから」と敬遠せず、おもしろい中世文学に興味を持ってみることで、グッと視野が広がるとともに、歴史への理解をよりいっそう深められるでしょう。
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構成・文/HugKum編集部