徒然草はどんな内容? あらすじや作者について分かりやすく紹介【親子で古典に親しむ】

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「徒然草(つれづれぐさ)」は、中学校の古文の授業で習うことの多い作品です。将来子どもに教えるためにも、基本的な知識を押さえておきましょう。数多くの古典の中でも徒然草が重要視される理由や、有名なお話・作者について解説します。

徒然草とは?

「徒然草(つれづれぐさ)」は、日本三大随筆の一つに数えられる名作です。書かれた時期や、他の2作品との違いを見ていきましょう。

鎌倉時代末期に生まれた作品

徒然草の作者は、鎌倉時代末期に朝廷に仕えていた「吉田兼好(よしだ けんこう)」という人物です。後に出家し、徒然草を書いたといわれています。

以前から書き溜(た)めていた原稿を、出家後にまとめたという説もあるなど、徒然草が完成するまでの詳しい経緯は分かっていません。

タイトルの「徒然」は、特にやるべきことがなく、手持ち無沙汰な様子を表しています。「草」は植物ではなく、「草子(そうし、ノートのようにとじてある冊子)」のことです。

吉田兼好(イメージ)

日本の三大随筆の一つ

徒然草は「方丈記(ほうじょうき)」「枕草子(まくらのそうし)」と並んで、日本の三大随筆と呼ばれています。

「方丈記」は、鎌倉時代前期の歌人「鴨長明(かものちょうめい)」が書いた作品です。「無常観(むじょうかん)」と呼ばれる仏教の考え方のもと、不安定な社会情勢や作者自身の人生について、簡潔な文章で綴られています。

「枕草子」は、平安時代中期の歌人・清少納言(せいしょうなごん)の作品です。一条天皇の后(きさき)「藤原定子(ふじわらのていし)」に仕えた女流歌人で、自身の好き嫌いや職場での出来事について、素直で鋭い視点で書き残しています。

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徒然草は、どんな内容?

徒然草という言葉を聞いたことがあっても、詳しい内容までは覚えていない人も多いでしょう。作品のコンセプトや、よく知られているストーリーを紹介します。

日常生活を気の向くままに書いた作品

徒然草は、兼好が日常生活の中で見聞した出来事について、気の向くままに書いた作品です。

「つれづれなるままに」で有名な序段を含む、全244段で構成されています。

各段のテーマは、人の生き方や人間関係、信仰など多岐にわたります。皮肉やユーモアを交えて書かれたストーリーは人間味にあふれており、現代社会に通用する教訓的な内容も少なくありません。

当時の風習や人々の考え方がよく分かり、史料としての価値も認められています。

徒然草で書かれる無常観とは

兼好が生きた鎌倉末期は、幕府の権威が失墜(しっつい)し、朝廷も皇位継承争いに明け暮れる不安定な時代でした。明日をも知れぬ日々が続いたことから、世の中に「無常観」が広がります。

無常観とは、下記の二つの考え方に基づいた思想です。

・すべてのものは、絶えず変化する
・この世のすべては幻で、仮の姿に過ぎない

無常観には、「人も仮の姿であっていずれは死ぬので、未来のことをあれこれ考えても仕方がない」という、あきらめにも似た雰囲気が感じられます。

徒然草のストーリーにも無常観がにじみ出ていますが、兼好は無常観を前向きに捉えていたようです。「先のことを嘆くよりも、今を大切にするべき」と説いた段もあり、現代を生きる私たちまで励まされる内容となっています。

徒然草の代表的な段を紹介

徒然草に書かれている、序段を除いた243のお話の中から、代表的な段をいくつか見ていきましょう。

例えば、第150段には、芸を身に付けたい人へのアドバイスが書かれています。

「上達してから人に見せようという気持ちでは、芸は身に付かない。どんな名人でも初心者からスタートしたのだから、下手でも恥ずかしがらず、上手な人を見習ってコツコツ努力するべき」と言っています。

習い事や勉強を頑張る子どもにも、聞かせてあげたい内容です。

そのほか、第51段は、川から庭の池に水を引こうとした天皇のエピソードです。天皇は近隣の住民を大金で雇い、水車を造らせます。住民は、何日もかけて水車を完成させましたが、うまく動かず何の役にも立ちません。

そこで、水車に詳しい地域の人を呼んだところ、あっという間に完成し、無事に水を引くことができました。「何事においても、その道に精通した人は尊いものである」と締めくくっています。

お金や時間をかければ何でもうまくいくわけではないと、諭しているようですね。

三連水車(福岡県朝倉市)。1662(寛文2)年、この地域を旱魃(かんばつ)が襲った。筑後(ちくご)川から取水するため、自動回転式の重連水車を設置したのが、約230年前だという。以来、日本最古の実働する水車として、その名が知られる。現在、朝倉市には3つの重連水車があり、農地をうるおす面積は約35ヘクタールに及ぶ。

徒然草の作者・吉田兼好は、どんな人物?

今読んでも面白い、たくさんのストーリーを書き上げた作者は、どのような人物だったのでしょうか。吉田兼好の人物像と生涯を紹介します。

鎌倉末期・南北朝時代の歌人

兼好は1283(弘安6)年ごろに、京都にある吉田神社の神職の家に生まれ、20歳くらいから朝廷に仕えました。

吉田神社・斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)「中門」(京都市左京区吉田神楽岡町)。吉田神社は859(貞観元)年、奈良春日大社の神を勧請して始まる。鎌倉時代以降は卜部氏(後の吉田家)が相伝し、その拠点として斎場所大元宮を建立。幕末まで神道界の最高権勢を誇るが、明治になると特権を剝奪された。中門は、京都府指定有形文化財。

 

当時の朝廷で勢いのあった歌人「二条為世(にじょうためよ)」に和歌を学び、二条派の和歌四天王の一人と称されるほどの才能を発揮します。

30歳ごろに出家した後も、随筆や仏道修行のかたわら、和歌を詠んでいたようです。

兼好の和歌は、「続千載和歌集(しょくせんざいわかしゅう)」をはじめとする勅撰(ちょくせん)和歌集に18首選ばれているほか、個人の歌集「兼好法師集」も残っています。

吉田兼好の生涯

兼好の本名は「卜部兼好(うらべかねよし)」です。

卜部家は、代々神祇官(じんぎかん)として朝廷に仕える家柄で、兼好も後二条天皇の外祖父の一族・堀川家の側近となり、天皇の身辺に仕えました。

有力公家(くげ)の側近に取り立てられるほどの才能があった兼好でしたが、後二条天皇が亡くなると、堀川家も力を失い、出世の道を絶たれてしまいます。

兼好が若くして出家した理由は定かではありませんが、個人の努力や才能だけではどうにもならない世の中に、疑問や諦めを感じたのかもしれません。

当時は不安定な世情から、兼好のように出家する人は珍しくありませんでした。ただし、ほとんどの人が特定の宗派に属して寺院で修行するなか、兼好は、どの宗派にも属さず気ままに過ごしています。

兼好は1352(文和元)年まで生存していたことが確認されていますが、いつ、どこで亡くなったかは不明です。

徒然草から作者の思いを感じよう

吉田兼好は高い教養を持ち、政治の中枢にかかわることのできる立場でしたが、若くして出家し、富や権力などとは無縁の生活を選びました。

俗世から離れた立場で、ありのままを綴った兼好の徒然草は、後世の人にも受け入れられ、長く読み継がれています。いつか子どもと一緒に「徒然草」を読み、兼好が伝えたかったことについて話し合ってみると面白いかもしれません。

おすすめ参考図書

筑摩書房 こども「徒然草」

小学館文庫 マンガ古典文学「徒然草 」

王様文庫 眠れないほどおもしろい徒然草

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構成・文/HugKum編集部

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