貧窮問答歌とは? 内容や作者・山上憶良についてわかりやすく解説【親子で歴史を学ぶ】

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「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」をご存知でしょうか? 日本最古の和歌集「万葉集」におさめられている山上憶良(やまのうえのおくら)の歌です。この記事では、万葉集の中でも異色の歌とされる「貧窮問答歌」の内容や、歌が詠まれた時代背景、山上憶良の人物像について解説します。

貧窮問答歌とは

貧窮問答歌は、「ひんきゅうもんどうか」と読みます。「万葉集」第5巻におさめられている長歌(ちょうか)です。ちなみに長歌とは、五七を3回以上繰り返し、最後は七で終わる和歌の形式。反歌(はんか)とよばれる短歌を詠み添えます。

山上憶良の「万葉集」歌碑(福岡県太宰府市)。筑前守在任中に詠んだ歌碑が、この太宰府市をはじめ数多くある。「大野山 霧立ちわたる 我が嘆く おきその風に 霧立ちわたる」(国分天満宮)。歌碑に刻まれたこの歌は、最愛の妻を亡くした大宰府の帥(そち)・大伴旅人のために詠んだ歌である。また嘉麻(かま)市にも15基の歌碑が立っている。

作者

貧窮問答歌を詠んだのは、山上憶良(やまのうえのおくら)です。山上憶良がどんな人物だったのかは、後ほど解説します。

詠まれたのは、いつ

貧窮問答歌が詠まれたのは、奈良時代初期の731(天平3)年ごろといわれています。

内容は?

貧しい人(貧者)と、さらに貧しい人(生活に困窮している人:窮者)が、自分たちの貧しさを問答形式で述べあったもので、当時の農民の貧しさ、苦しさが描かれています。くわしくは後ほど説明しましょう。近年では、貧者と役人のやりとりという説もあります。

貧窮問答歌がおさめられている万葉集とは

「万葉集」は、奈良時代の終わりごろに完成したとされる日本最古の和歌集です。7世紀後半から8世紀後半にかけて、歌人の大伴家持(おおとものやかもち)が中心となって編纂(へんさん)したといわれています。全20巻あり、貧窮問答歌が載っているのは第5巻です。ちなみに「令和(れいわ)」という元号は、「万葉集」の中の言葉から採られました。

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貧窮問答歌が詠まれた時代背景

貧窮問答歌が詠まれた奈良時代は、律令制という国家制度のもとで、里長(りちょう)と呼ばれた役人が、税(当時は主に米)の取り立てをしていました。農民は貧しく、苦しい暮らしを強いられていました。

復元された平城京跡(奈良市)。貧窮問答歌が詠まれたころは、どのような時代だったのだろうか?

貧窮問答歌の代表的な部分

貧窮問答歌の中から、代表的な部分を紹介します。

竈(かまど)には 火気(けぶり)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯(いひ)炊(かし)く

ここは、当時の農民がいかに貧しい暮らしを送っていたのかが分かる部分です。訳は、「かまどには火の気がなく、米を蒸す土器にはクモの巣がはってしまい、ご飯を炊くことも忘れてしまった…」となります。

此(こ)の時は 如何(いか)にしつつか 汝(なんじ)が世は渡る

問答形式になっている貧窮問答歌の「問い」にあたる歌の最後の部分です。訳は、「こういう時に、どうやって、あなたは暮らしていくのか」です。「こういう時」とは、貧しい当時の暮らしを指しています。

世間(よのなか)の道 世間を憂(う)しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

貧窮問答歌の「答え」にあたる歌の最後の部分です。訳は、「この世の中はつらく、身も細るほど耐え難く思うけれど、鳥ではないから飛んで行ってしまうこともできない」となります。

「やさし」は、現代の「やさしい」につながる言葉ですが、当時は「身も細るほどつらい。肩身が狭い。耐え難い」という意味がありました。

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貧窮問答歌の作者、山上憶良とは

山上憶良とは、どんな人物なのか、肩書や生い立ち、作風などを紹介します。

肩書

奈良時代初期の下級貴族出身の官人(朝廷につかえている役人のこと)。

誕生日・出身地

山上憶良が生まれたのは、660年ごろといわれていますが、具体的な日時は不明、出身地も不明です。

生い立ち

山上憶良の記録は、彼が41歳になるまで、まったく残っていません。そのため、どこで生まれたのか、どのような幼少期だったのかは分かりません。

分かっているのは、702年(大宝2年)に第七次遣唐使船(けんとうしせん)に同行してから後です。唐に渡って、儒教や仏教などの学問を修めました。704(慶雲元)年に帰国後は、716(霊亀2)年に伯耆守(ほうきのかみ)に任命されました。721(養老5)年に都に呼び戻されて、東宮侍講(とうぐうじこう:東宮=皇太子に、学問を講義する役目)となります。そののち726(神亀3)年には筑前守(ちくぜんのかみ)に任命されています。この筑前守時代に、たくさんの歌を詠んだといわれています。

作風・作品

山上憶良の作風は、「貧窮問答歌」からも分かるように、「社会」に目を向けたものでした。仏教や儒教の教えに詳しいことから、老いや人の死、貧しさに目を向け、さらに社会の矛盾を歌に詠んでいました。

役人でありながら、農民の貧しさや防人(さきもり)として出かける夫を送る妻など、弱者を扱った歌が多く、万葉集の中では異色の「社会派」歌人といえます。

代表的な作品には、「貧窮問答歌」「子を思ふ歌」「好去好来の歌」などがあります。なお「万葉集」には、78首が選ばれています。

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貧窮問答歌の現代語訳が読める本のおすすめ

「貧窮問答歌」の現代語訳が読める本を3冊ピックアップしました。

万葉集 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典

日本最古の歌集から名歌約140首を厳選。恋の歌、家族や友人を想う歌、死を悼(いた)む歌など、天皇や宮廷歌人をはじめ、名もなき多くの人々が詠んだ素朴で力強い歌の数々を丁寧に解説しています。原文も現代語訳も、ふりがな付きなので読みやすいのが特徴です。

口訳万葉集(上)

民俗学者、国文学者、詩人・歌人でもある折口信夫(おりくちしのぶ)が、「万葉集」を広く国民に愛読される古典として知らしめたとされる1冊。

万葉集鑑賞事典

「万葉集」の代表的な歌165首に解釈を加え、さらに知っておきたい基礎知識を分かりやすく解説しています。「万葉集」を読み、学ぶための入門書です。

「貧窮問答歌」から万葉の世に想いをはせる

「貧窮問答歌」は、天皇や貴族、下級役人、防人、農民まで、さまざまな身分の人の歌をおさめた、「万葉集」の中でも異色の歌といえます。作者の山上憶良のように、苦しい生活を強いられている人々に対する想いを忘れないようにしたいものです。

最近は、テレビなどで川柳が取り上げられることがありますが、「万葉集」は日本最古の和歌集で、その後の日本文学の原点ともいえます。2000首以上がおさめられているので、全部を読むことは大変ですが、入門書などで代表的な歌から親しんでみると、新たな発見があるかもしれません。

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文・構成/HugKum編集部

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