高知城の二大特徴
「高知城(こうちじょう)」には、大きな特徴が二つあります。一つは天守閣(てんしゅかく)と本丸御殿(ほんまるごてん)が現存する唯一の城だということ、もう一つは治水・排水面でさまざまな工夫が施されていることです。
現存天守12城・重要文化財7城の一つ
現在、日本に残っている城のうち、天守があるものは12カ所で「現存天守12城」といわれています。なかでも、天守近くに本丸御殿がほぼ完全な形で残っているのは高知城だけで、重要文化財に指定されています。
高知城は、標高約44.4mの高地に位置し、本丸の敷地面積は約1,580平方mです。天守の外観は四重ですが、中に入ると三重六階建てであることがわかります。入母屋(いりもや)造りの屋根の上に望楼(ぼうろう)をのせた形が美しいことでも有名です。
望楼の黒漆(くろうるし)仕上げの「廻縁(まわりえん)」と「高欄(こうらん)」は、初代土佐藩主で高知城を築城した山内一豊(やまうち かつとよ/かずとよ)の、こだわりから生まれたといわれています。
別名「鷹城(たかじょう)」ともいわれる高知城は、南海随一の名城として現在でも親しまれています。
多雨地域にある高知城に施された工夫
多雨地域に築城された高知城には、どのような排水対策が施されていたのでしょうか。
代表的な工夫の一つは、石造りの排水管・石樋(いしどい)です。排水が、石垣に当たらないように突き出た造りで、雨水を集めて石樋から排水する仕組みとなっています。
もう一つは、排水能力に優れた「野面積み(のづらづみ)」で造られた石垣です。自然石をそのまま積み上げる工法で、石垣にひずみを設けるなどの工夫をして頑丈に造り上げています。
また、高知城がある地域は、雨以外に川の氾濫(はんらん)にも悩まされていました。一豊は、この地を「河中(こうち)」と名付けたのですが、二代藩主・忠義(ただよし)の頃に水害を嫌って「高智」と改名され、後に「高知」に転じたようです。
高知城が持つ長い歴史
高知城は築城されてから約400年が経過しましたが、高知城の前身の大高坂(おおたかさ)城は南北朝時代から存在したといわれています。
高知城の前身・大高坂城
高知城の前身の大高坂城は、南北朝時代に「大高坂松王丸(おおたかさ まつおうまる)」という武将が造ったと伝えられています。といっても、土塁(どるい)と望楼があるだけのシンプルな城だったようです。
戦国時代になると、土佐の覇者・長宗我部(ちょうそかべ)氏が大高坂城の主(あるじ)になり、長宗我部元親(もとちか)の代には四国をほぼ平定します。豊臣秀吉(とよとみひでよし)の四国征伐の際、元親は大高坂城を居城にしましたが、治水対策が上手くいかなかったため、他の城へ移っていきました。
初代土佐藩主・山内一豊が築城
高知城を築城したのは、土佐藩の初代藩主・山内一豊です。一豊は豊臣秀吉の家臣でしたが、「関ケ原の戦い」では東軍(徳川方)に味方して活躍します。その功績を認められ、土佐一国に封ぜられました。
しかし、土佐では改易(かいえき)された長宗我部氏の遺臣たちの抵抗にあいます。山内氏は武力で鎮圧するとともに、長宗我部氏の統治方法を踏襲(とうしゅう)するなどして人心掌握に努めました。
土佐の統治をすすめるなかで、1601(慶長6)年に高知城の築城を開始し、約10年の歳月をかけて完成させます。
江戸時代中期に焼失するも、再建される
1727(享保12)年、高知城は大火で天守などを焼失しましたが、2年後には再建を始め、1749(寛延2)年に天守が完成しました。現在残っている天守はこのときに造られたものです。そして、1753(宝暦3)年に三ノ丸が完成し、約25年をかけた再建が完了しました。
明治時代に入ると「廃城令」が出され、全国の城が解体されます。高知城も本丸周辺と追手門(おうてもん)を残して解体され、高知公園として再出発することになります。
その後、高知城は1934(昭和9)年に国宝に指定され、1950(昭和25)年には文化財保護法制定により重要文化財となりました。
高知城の見どころをチェック
戦うための城として、高知城には、どのような仕掛けがあったのでしょうか。築城者である一豊や、その妻・千代(「まつ」ともいわれる)のエピソードもあわせて紹介していきます。
さまざまな守りの仕掛け
江戸時代初期に築城された高知城は、まだまだ戦国時代の城としての要素を残しています。
たとえば、城の表門である追手門には、攻めてくる敵を鉄砲で迎え撃つための「狭間(さま)」が設けられています。「矢狭間塀(やざまべい)」とあわせて、3方向から攻撃できる仕組みです。
本丸近くの「詰門(つめもん)」は入り口と出口が筋違いに造られていて、侵入してきた敵は方向感覚を失うように仕向けられます。さらに、門の2階部分には天井が落ちる仕掛けも造られています。
詰門を通らずに本丸に行くこともできますが、要所ごとに「忍び返し」や鉄砲を撃つ狭間など仕掛けが設けられているので、攻め込むのは大変だったことでしょう。この忍び返しとは塀の上などに、刃を上に向けて植えこまれた剣のことです。高知城の天守1階北側の壁に設けられた忍び返しは、日本に現存するただ一つのものです。
一豊と千代の銅像
追手門北側に位置する高知県立図書館前に、山内一豊の騎馬像があります。高さ約4.32m、重さ約3.6トンという日本でも最大級の銅像です。
図書館から本丸に向かう途中には、一豊の妻・千代の像もあります。千代と一豊は「内助の功」の逸話で有名です。
あるとき、一豊は名馬を見つけたのですが、お金がないので購入をあきらめました。それを知った千代が、自分の持参金でその名馬を購入したという話です。
武将にとって、名馬を持つことは一種のステータスです。結果として、織田信長が京都で開催した「馬揃え(うまぞろえ)」で一豊の名馬は注目を浴び、信長からも褒められたと伝わっています。一豊の出世のきっかけになった有名な逸話です。
明治維新に尽力した板垣退助の像
高知城にあるもう一つの銅像は、追手門近くに立つ板垣退助(いたがき たいすけ)の像です。
板垣は、1837(天保8)年に土佐藩上士(じょうし)の家に生まれ、第15代藩主・山内容堂(やまうち ようどう)の側用人(そばようにん)として出仕しました。明治維新後は自由民権運動を主催し、45歳のときには刺客に襲われて負傷するなかで発したという名言「板垣死すとも自由は死せず」が有名です。
板垣以外にも、幕末・明治維新では、多くの土佐出身者が活躍します。尊王攘夷運動を推進し、土佐勤王党を結成した武市半平太(たけち はんぺいた)、薩長同盟を成し遂げた坂本龍馬などが有名です。
また、当時、すでに藩主の座から退いていた山内容堂は、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らとともに徳川慶喜(よしのぶ)に「大政奉還」を建白しました。後藤は明治維新後に自由民権運動へ参加し、その後政府に復帰しています。
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家族で、高知城の仕組みや歴史にふれてみよう
高知城は初代土佐藩主・山内一豊によって築城され、現在でも天守と本丸御殿が残っている唯一の城です。多雨地域の城ということで、排水に工夫がこらされています。
また、城を守るための工夫が随所に施され、日本に現存するただ一つの忍び返しも見られます。高知城のさまざまな仕掛けは、見ていてもとても面白いので、子どもたちも楽しんで歴史にふれられるでしょう。
高知城 公式ホームページ | Kochi Castle Official Website
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構成・文/HugKum編集部