征韓論とは、どんなもの?
「征韓論(せいかんろん)」は、幕末から明治初期にかけて唱えられました。当時、鎖国状態にあった朝鮮を、開国させるのが目的です。「韓」の字が使われた理由とともに、征韓論の概要を見ていきましょう。
朝鮮を、武力で開国させようとする考え
明治政府は、鎖国状態にあった朝鮮に、開国・国交樹立を迫りましたが、朝鮮側は応じませんでした。そこで、武力をもって朝鮮を開国させようという「征韓論」を唱えたのが、西郷隆盛(さいごうたかもり)や板垣退助(いたがきたいすけ)です。
幕末の日本は、アメリカをはじめとする欧米諸国から圧迫を受け、損害も被っていました。征韓論の基となったのは、その損失を「朝鮮侵略」によって補おうという考えです。
古事記や日本書紀には、神功(じんぐう)皇后が、当時の統一国家・新羅(しらぎ)に出兵し、朝鮮半島の広い地域を支配したという「三韓征伐」の記述があります。この「三韓」が朝鮮半島南部に暮らす朝鮮民族(韓族)の総称であったため、征韓論には「韓」の字が使われたといわれています。
征韓論が提唱された理由
征韓論の目的は、単に朝鮮を開国させることではありませんでした。背景には、当時の日本国内や東アジアの情勢が関係しています。征韓論が提唱された主な理由を見ていきましょう。
日本が諸外国に対抗するため
19世紀に入ると、欧米諸国は、日本を含む東アジアへの進出を画策するようになります。特に脅威だったのが、冬であっても凍らない不凍港を求めて「南下政策」をとっていたロシアの動向でした。
朝鮮がロシアの支配下に置かれれば、日本も無関係ではいられなかったはずです。そのため日本は、朝鮮との国交樹立に向けて動かないわけにはいきませんでした。
日本は、当時の朝鮮の「宗主国(そうしゅこく)」、つまり支配権を持つ国である清(しん)と、1871(明治4)年に対等な内容の「日清修好条規」を締結します。しかし、朝鮮は清に続こうとはしなかったのです。
朝鮮が、日本との修好に応じなかったため
朝鮮が、日本に対する拒否の姿勢を崩さなかったことも理由の一つです。
明治維新後、日本は朝鮮に、「王政復古」と「新政府樹立」を知らせる国書を送りました。しかし国書には、朝鮮の宗主国である清の皇帝が用いる「皇」や「勅」の字が入っていたため、日本の天皇は朝鮮国王を下に見ているとして、朝鮮は受け取りを拒否したのです。
また、当時、朝鮮の実権を握っていた大院君(だいいんくん:国王の実父)の李昰応(りかおう)は、日本を西欧諸国と同じ「洋賊」とみなしています。その敵対心は「日本人と交わった者は死刑に処す」と布告したほど激しいものでした。
維新後の国内の不満を収めるため
明治維新によって、旧来の身分制度「四民(士農工商)」は廃止されました。武士階級は「士族(しぞく)」と改められ、平民(へいみん)とは区別されたものの、特権は徐々に奪われていったのです。
そのため日本国内では、士族の不満が高まっていました。征韓論には、士族の不満の矛先(ほこさき)を朝鮮へ向けさせることで収めようという目論見(もくろみ)もあったのです。それは西郷隆盛が、板垣退助に宛てた手紙に、「内乱を冀(こいねが)ひ候(そうろう)心を外に移し、国を興すの遠略」という一文があったことからもうかがえます。
征韓論からつながる歴史上の出来事
征韓論は、明治政府内の対立だけでなく、その後の歴史にもさまざまな影響をもたらしました。征韓論提唱から朝鮮開国後までの、主な出来事を紹介します。
明治6年の政変
征韓論反対派は、大久保利通(おおくぼとしみち)や岩倉具視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどたかよし)ら「岩倉使節団」のメンバーが中心でした。
岩倉を全権大使とする岩倉使節団は、約1年10カ月にわたって欧米12カ国を訪問しています。欧米諸国との差を体感した岩倉らは、日本の内政を整え、国力を高めることが急務として、西郷隆盛らの征韓論推進派に反論しました。
1873(明治6)年10月、西郷の朝鮮派遣が決定します。武力行使が目的ではありませんでしたが、反対派は朝鮮派遣を不服として、辞職を盾に抵抗しました。
対立による心労から病にかかり辞職した三条実美(さんじょうさねとみ)に代わって、律令制度における最高位の役職・太政(だいじょう)大臣の代理となった岩倉は、推進派・反対派双方の意見を天皇に上奏します。天皇が支持したのは反対派だったため、西郷の朝鮮派遣は立ち消えとなってしまったのです。
西郷ら推進派は納得せず、辞表を提出しました。9人の参議のうち、5人が明治政府を去ったこの事件は、「明治6年の政変」と呼ばれています。
江華島事件から日朝修好条規締結
「江華島(こうかとう)事件」は1875(明治8)年9月、朝鮮・江華島(カンファド)付近で日本と朝鮮の間に起きた武力衝突です。日本の軍艦・雲揚(うんよう)号が水域に侵入したため砲撃した朝鮮に、日本は応戦して大きな損害を与えました。
背景には、当時、国交を巡って膠着(こうちゃく)状態だった日朝関係があります。日本は、アメリカのペリー提督が開国を迫ったときのように、雲揚号など複数の軍艦を朝鮮沿岸に配備して圧力をかけたのです。
江華島事件をきっかけとして、1876(明治9)年2月に「日朝修好条規(江華条約)」が締結されました。結果的に日本は、征韓論者が唱えた「武力」という方法で朝鮮を開国させたことになります。しかも条約の内容は平等とはいえず、日本に有利なものでした。
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士族の反乱と西南戦争
明治政府を離れた西郷らは、郷里の鹿児島県全域に「私学校(しがっこう)」を設立します。若者の教育と不平士族の統率が目的でした。海外の文化も積極的に取り入れ、次第に存在感を増していきます。
一方、政府は、士族の特権を剥奪していきました。1876(明治9)年には、士族の帯刀を禁じる「廃刀令」や、公債を支給する代わりに、政府から士族への秩禄(ちつろく:給与)を打ち切る「秩禄処分」が施行されます。
士族の不満は高まり、1870年代には西日本を中心に反乱が多発しました。1877(明治10)年には、政府軍と西郷率いる反政府軍による「西南(せいなん)戦争」が勃発(ぼっぱつ)します。約半年にわたる戦いは、中心人物である西郷らの自刃により政府軍の勝利で終わりました。
征韓論がなければ、西郷らは政府を離脱せず、西南戦争も起こらなかったかもしれません。そのことからも、征韓論が日本の歴史に及ぼした影響の大きさがうかがえるでしょう。
征韓論から日韓の歴史を辿ってみよう
征韓論の主旨は、武力による朝鮮の開国・近代化でした。しかし、日本国内の体制を整えるのが先決という征韓論反対派の意見が通ったため、明治政府は内部分裂してしまいます。
さらに、結果的に朝鮮を武力で開国させることになった江華島事件や、推進派の中心であった西郷隆盛らと政府軍が戦った西南戦争など、征韓論は、さまざまな歴史上の出来事の一因となりました。現代まで続く日韓の問題にもつながる征韓論を、この機会に改めて見直してみましょう。
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構成・文/HugKum編集部