井上馨は何をした人? 幕末は志士、維新後は政治家として活躍した経歴がすごすぎる【親子で歴史を学ぶ】

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井上馨(いのうえかおる)は幕末に活躍した長州藩士の1人であり、明治政府の重鎮でもあります。かの伊藤博文(ひろぶみ)や高杉晋作(しんさく)とも親交があったといわれていますが、実際にはどのような人だったのでしょうか。幕末から明治時代にかけて活躍した井上馨の生涯や経歴を紹介します。

井上馨とは

井上馨とは幕末の長州藩士であり、明治時代の政治家です。伊藤博文と親交が深かったことで知られており、伊藤とともに「長州ファイブ」、あるいは「長州三尊」の1人として知られています。

井上馨とはどのような人だったのか、藩士時代の様子から見ていきましょう。

長州藩の名門武家に生まれる

井上馨は1835年(1836年説もある)、周防(すおう)国湯田(ゆだ)村(現在の山口市湯田温泉)に長州藩士・井上光亨の次男として生まれました。藩の中でも家柄は悪くはなく、数代前の祖先は毛利元就(もとなり)の家臣だった井上就在(なりあり)です。武家としてはそれなりに名門だったいえるでしょう。

とはいえ、井上家の暮らしは楽なものではありませんでした。家格は百石でしたが、それだけで食べていくのは難しかったようです。幼いころの井上は、農業の手伝いをしながら慎ましく暮らしていました。

そんな井上も、15歳のときに藩校「明倫館(めいりんかん)」に入学します。その後、21歳で志道慎平(しじしんぺい)の養子となり、藩主の参勤交代に従って江戸へ向かうこととなりました。

井上馨が学んだ旧萩藩校・明倫館の南門(山口県萩市)

参勤交代で江戸へ、伊藤博文と出会う

参勤交代で江戸を訪れた井上は、かねてから必要性を感じていた西洋の学問や技術に触れることになります。とりわけ、剣術の斎藤弥九郎、砲術の江川太郎左衛門、蘭学の岩屋玄蔵らに学べたのは大きな意義があったといえるでしょう。

そしてもう一つ、井上の生涯に大きな影響を与えたのが伊藤博文との出会いです。伊藤はもともと農民階級であるうえ、松下村塾(しょうかそんじゅく)の出身でした。本来であれば、中流階級の武士といえる井上とは接点がありません。

伊藤博文らが学んだ松下村塾(山口県萩市)

 

しかし、井上は桂小五郎の従者として江戸を訪れていた伊藤、さらには高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)らと行動をともにするようになります。1860年、藩主・毛利敬親(たかちか)の小姓役となり「聞多(もんた)」の名を賜った後も、積極的に「尊皇攘夷(そんのうじょうい)運動」に参加しました。

過激な攘夷運動にも参加

当時の長州藩では、「尊皇攘夷」という考え方が主流でした。尊皇攘夷とは、「天皇を敬い、外敵を排斥する」という思想です。幕末の長州藩は薩摩藩とともに攘夷運動の先頭に立っており、「無理矢理日本に開国を求めてきた外国を武力で排除して、鎖国を維持しよう」と考えていました。

血気盛んな長州の武士たちは随所で過激な攘夷運動を繰り返しており、藩内ではエリートだった井上も例外ではなかったのです。

特に知られたところでは、1862年の「品川・御殿山(ごてんやま)外国公使館焼き討ち事件」への参加があります。井上は高杉や久坂、伊藤らとともに建設中の英国(イギリス)公使館に火を付け、焼き払いました。

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長州ファイブとして英国に密航留学

井上を語るとき、しばしばいわれるのが「長州ファイブの一員だった」ということです。

井上の長州ファイブ時代の様子や、その後の活動を紹介します。

長州ファイブとは?

長州ファイブとは、長州藩がイギリスに送った5人の藩士を指します。メンバーは井上、伊藤のほか、遠藤謹助(きんすけ)、野村弥吉(やきち)、山尾庸三(やまおようぞう)です。いずれも後の明治政府で中心的な役割を果たし、近代日本の礎を作ったといわれています。

5人は、長州の「密航留学生」としてイギリスのロンドン大学で学びました。当時の長州藩は、日本が外敵を排し国力をつけるには、海外に学ぶことが必要と考えていました。そこで、同じ島国ながら世界有数の海軍力を誇るイギリスに注目し、藩士を派遣して様子を窺(うかが)わせることにしたのです。

渡航費用が足りないなどのトラブルがあったものの、1863年に5人は横浜から出航します。その後4カ月余りかけ、彼らはイギリスに到着しました。

1859年には完成していたイギリス・ロンドンのビッグベン

下関戦争勃発で帰国、和平交渉に尽力

当時、長州藩は攘夷運動として、たびたび関門海峡を通る外国籍の船を攻撃していました。1863年にはその報復として、アメリカとフランスの軍艦から砲撃を受けています。諸外国との不穏な空気はますます高まり、本格的な武力衝突が近いといわれるようになりました。

イギリスの新聞でその状況を知った井上と伊藤は、留学を取りやめて急遽(きゅうきょ)帰国します。しかし交渉は間に合わず、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊が下関(しものせき)を砲撃しました。この長州藩と列強との一連の武力衝突を「下関戦争」といいます。

結果として長州藩は惨敗し、井上は伊藤・高杉らとともに講和使節としてイギリス艦隊に乗り込みます。そして、通訳として和平交渉に尽力しました。

幕末期に長州藩(山口県)が製造した青銅製を中心とする大砲は長州砲と呼ばれる

保守派による暗殺未遂を乗り越え、討幕へ

行き過ぎた攘夷運動を行う長州藩に対し、1864年、幕府は討伐軍の派遣を決定しました。これがいわゆる「第一次長州征伐」です。

長州藩は藩主を中心に、征伐への対応をどのようにすべきか御前(ごぜん)会議を開きました。そしてここで、「恭順の姿勢は示すが、武力には抵抗する」として「武備恭順(ぶびきょうじゅん)」を主張する井上と、「幕府に謝罪して許しを乞う」とする保守の「絶対恭順」派が真っ向から対立してしまいます。

両者によって激論が交わされたものの、最終的に藩主・毛利敬親は井上を支持し、長州藩は武備恭順で対応するとして会議は終わりました。

ところが、この結果に納得できなかった保守派が、帰宅途中の井上を襲撃します。井上は一命は取り留めたものの、50針も縫う重傷を負いました。このときの傷跡は生涯残りましたが、井上は奇跡的に回復します。そして、その後は高杉や伊藤らとともに倒幕運動の中心としてより活発に活動していくのです。

明治維新後の政治活動

明治維新後、井上は長州閥の1人として新政府の要職に就きます。参与兼外国事務掛に任じられて九州鎮撫(ちんぶ)総督の参謀となり、1868年には長崎府判事にも就任しました。

明治維新後の井上の活動を見ていきましょう。

外務大臣時代は不平等条約の改正に取り組む

井上は1879年に外務卿に、85年には第1次伊藤博文内閣の外務大臣(第5代)に就任します。そして、幕府が諸外国と締結したさまざまな不平等条約の改正に取り組みました。

当時の日本がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと締結していたいわゆる「安政の五カ国条約」は、諸外国の治外法権を認め、日本の関税自主権を放棄したものでした。日本にとっては極めて不利であり、井上らは条約の早急な改正を目指していたのです。

外務卿・外務大臣時代、井上は通算21回も秘密裏に条約改正予備会議を実施したといわれています。

しかし、条約改正を急ぐあまりに、官庁集中計画や外国人判事を任用するなど、極端な欧化主義を取った井上のやり方は、多くの反発を招きました。交渉半ばの87年に、井上は辞任に追い込まれてしまいます。

鹿鳴館がその舞台

1883年、井上は迎賓館として「鹿鳴館(ろくめいかん)」を建設します。これは当時の日本には珍しい白亜の洋館で、国賓の接待や舞踏会、チャリティーバザーなどが行われました。

井上が鹿鳴館を造った目的は、西欧諸国に「日本が文化的な国である」と示すためです。井上は西欧の社交場を作って文明化した日本をアピールし、条約改正につなげたいと考えました。

しかし、この試みは失敗に終わりました。うわべだけの西洋化では西欧諸国にアピールできなかったうえ、国内からも批判が出たためです。

井上が外務大臣を辞任すると鹿鳴館も廃れ、90年には閉鎖され、宮内省に払い下げられてしまいました。

政治家として大臣を歴任

井上は外務大臣辞任後も、黒田内閣で農商務大臣、第2次伊藤内閣で内務大臣、第3次伊藤内閣で大蔵大臣などを歴任しました。ほとんどの大臣職は経験しているといわれ、就任していないのは、総理大臣と海軍陸軍大臣くらいです。

1901年の内閣組閣失敗により井上は政治の第一線を退きますが、元老院(げんろういん)の1人として強い力を持ちました。1914年の第2次大隈内閣誕生にも、井上の意向が反映されているといわれています。

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実業家としても経済界に君臨

外務大臣に就任する前、井上は財政に明るい人物として重宝され、大蔵省に入省していました。ところが、このとき予算や汚職事件について追及されたため、いったん政界を引退しています。その後は実業家に転身し、経済界で大きな力を持つようになりました。

実業家としての井上について紹介します。

三井物産の前身となる先収会社を興す

1873年、井上は、益田孝(ますだたかし)らと「先収会社(せんしゅうがいしゃ)」を設立しました。これが後の「三井(みつい)物産」となる会社です。経営は順調に進み、主に茶・米・武器・肥料などを商材として取り扱っていました。

1875年に井上が政界に戻った後は、経営を「三井組」が引き継ぐことになります。これにより旧三井物産が誕生し、国内外に事業を拡大していったのです。

資本主義の発展に尽くす

政治の第一線を退いた後、井上は日本鉄道会社・日本郵船会社の設立にも力を尽くしました。また、三井・藤田組などの財閥の最高顧問を務めるなど、財界にも強い発言力を維持します。

地方財閥との関わりも深く、79歳で亡くなるまで、井上は「財界最大の黒幕」として大きな影響力を持ち続けました。

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もっと詳しく知りたい方におすすめの本

井上馨をもっと知りたい方のために、その時代について書かれたおすすめの本をご紹介します。

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史12 「明治維新と新政府」

明治新政府が戊辰戦争で勝利し、新しい時代が始まる明治時代前期がまんがで解説されています。新政府は、不平等条約を改正させるため使節団を派遣しますが、失敗に終わります。その間、日本の留守政府は、朝鮮への使節派遣を決めますが、これをめぐって政府は、分裂の危機に直面します。

小学館版学習まんが 日本の歴史13 「明治維新と文明開化」

新政府は岩倉具視を団長として、西洋諸国を視察しましたが、まだ日本にはおくれている面がたくさんあると実感。政府はそうした困難をひとつひとつ解決していきます。やがて憲法と議会ができて近代国家としての礎を築くまでの時代が描かれた学習まんがです。カバーイラストは和月伸宏先生描きおろし。

日本史探偵コナン11 「明治時代 機械仕掛けの記念碑」

圧倒的人気のコナン歴史まんが『日本史探偵コナン』の第11巻。ごぞんじ名探偵コナンが、明治時代の波乱万丈な歴史ストーリーをナビゲートします。Kindl版で全12巻そろえてもいいですね。

日本の政治経済を支えた井上馨

倒幕の急先鋒(せんぽう)・長州藩で活躍した井上馨は、明治政府でも中心人物として日本の政治・経済を支えました。主に財政・外交面での活躍が目覚ましく、業績の中には日本鉄道会社・日本郵船会社の設立をはじめ、現在の日本社会に深く関わる事業も数多く見られます。

井上馨というと、財閥との密接な関係や徹底した欧化主義政策ばかりを強調する人がいるかもしれません。しかし、井上が日本の近代化や資本主義の発展に大きく貢献したことは否定できない事実です。

井上馨と彼らをとりまく明治時代の歴史的人物について学ぶことで、日本の近代化の経緯と問題点が見えてくるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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