「藤原京」はどこにあった?「初めて」だらけの史実とあわせて、場所や見どころを紹介【親子で歴史を学ぶ】

藤原京は平城京や平安京ほど知られていませんが、日本の歴史で重要な位置を占める都です。大宝律令が制定されただけでなく、制度や区画整備、建築方法など「初めて」のものが多く導入されました。藤原京の歴史を、見どころとあわせて振り返ってみましょう。
<上画像:藤原京跡に咲く蓮の花と畝傍山>

 藤原京とは、どのような場所?

「藤原京(ふじわらきょう)」は、歴史の授業でおなじみの平城京や平安京よりも古い時代の都です。現在は、その跡が残るのみですが、日本で初めて唐(とう:当時の中国)の都の様式を取り入れたことで知られています。

現在の奈良県橿原市にあった最初の都城

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、現在の奈良県橿原(かしはら)市にあります。近鉄 耳成(みみなし)駅や、JR桜井線 畝傍(うねび)駅など、最寄駅から徒歩30分ほどの場所です。藤原京の広さは東西約5.2km、南北約4.8kmであったとされています。

天皇の住まいや政治を行う施設などがあった藤原宮は、香久山(かぐやま、香具山とも表記される)・耳成山・畝傍山の「大和三山(やまとさんざん)」に囲まれた場所にありました。大和三山のうち、香久山は「聖なる山」として天の香久山とも呼ばれ、和歌にも詠まれています。

藤原京は、日本で初めて造られた都城(とじょう、周囲を城壁で囲った都市)です。近隣の桜井市や高市郡明日香(あすか)村には、飛鳥宮跡・石舞台(いしぶたい)古墳・キトラ古墳・高松塚(たかまつづか)古墳などの史跡も残っています。

これらの地域には、歴史的・学術的に貴重なものが多いことから、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」としてユネスコの世界遺産登録を目指しています。

藤原宮跡は南北約600m、東西約240mにおよぶ、日本で最大規模の朝堂院の遺構。
藤原宮跡は南北約600m、東西約240mにおよぶ、日本で最大規模の朝堂院の遺構。

新しい国造りを目指して694年に遷都

藤原京は、新しい国造りを目指して天武(てんむ)天皇が造営に着手しました。天武天皇が志半ばで崩御したあとは、皇后の持統(じとう)天皇が引き継いで完成させています。

藤原京に遷都(せんと)が行われたのは694(持統8)年です。以後、710(和銅3)年の平城京遷都までの16年間、日本の都となります。その間は、持統・文武(もんむ)・元明(げんめい)の3代の天皇が統治しました。

なお、「藤原京」は近代になってから使われるようになった名称です。日本書紀には「新益京(あらましのみやこ・しんやくのみやこ)」として、造営に関する記述が見られます。

天武・持統天皇陵(奈良県明日香村)。687(持統元)年に築かれ、天武天皇が埋葬された陵が野口王墓(のぐちのおうのはか)で、702(大宝2)年に崩御した持統天皇が、日本初の火葬で合葬され天武・持統天皇陵となった。宮内庁の治定が信頼できる数少ない陵墓。
天武・持統天皇陵(奈良県明日香村)。687(持統元)年に築かれ、天武天皇が埋葬された陵が野口王墓(のぐちのおうのはか)で、702(大宝2)年に崩御した持統天皇が、日本初の火葬で合葬され天武・持統天皇陵となった。宮内庁の治定が信頼できる数少ない陵墓。

藤原京には「初めて」がたくさん

藤原京には「日本初の都城」のほか、政治や建築などの分野で、さまざまな「初めて」があります。のちの歴史にも影響を与えた代表的なものを見ていきましょう。

当時の先端技術で建てられた宮城

藤原京は、日本の宮城として初めて瓦葺(かわらぶ)き屋根で造られました。1枚10kgほどあった当時の瓦を、約200万枚も使用したとされています。藤原宮の建造にあたって大量の瓦が必要になったため、瓦焼きの技術は大きく向上しました。

また、藤原宮は数万本の柱や多くの板材を用いて、当時の先端技術を注ぎ込んで造られました。現在の滋賀県で切り出した材木を、川や陸路を使って藤原京へ運び込むなど、資材の調達にも大変な手間と人手をかけたそうです。

なお平城京への遷都に伴い、藤原宮も資材を再利用するため解体されました。加えて、711(和銅4)年に焼失したため、建物は残っていません。

長安にならい、平城京にも引き継がれた条坊制

藤原京では、唐の都・長安(ちょうあん)にならって「条坊制(じょうぼうせい)」が導入されました。2023(令和5)年時点で、藤原京以前の条坊制の痕跡は確認されていないので、日本で初めて採用されたと考えられています。

条坊制とは、碁盤(ごばん)の目状に区画整備する方法です。藤原京の場合、約4町(約4ha)の正方形の区画が南北12と東西8ありました。東西列を「条」と呼び、北から南へかけて一条、二条となります。南北列は「坊」で、南北列の中央にあるメインストリート「朱雀大路(すざくおおじ)」に近い方から一坊・二坊と数えます。

また、藤原京内の北側にある「藤原宮」の東側が左京、西側が右京です。条坊制は、のちの平城京や平安京にも引き継がれた形式で、呼び方は異なりますが、現在の京都市でも使われています。

平安京の概略図。藤原京にはすでに同様の構図が使用されていた。
平安京の概略図。藤原京にはすでに同様の構図が使用されていた。

律令国家としての第一歩を踏み出す

701(大宝元)年、文武天皇の治世下で「大宝律令(たいほうりつりょう)」が制定されました。「律」は現代でいう刑法、「令」は行政法や民法、訴訟法などのことで、日本で初めての「国」としての決まりになります。

大宝律令を制定した目的は、天皇を中心とする中央集権体制を整えることです。中央官庁の名称や組織も大きく変わり、地方行政には国・郡・里が定められました。今でいう都道府県や市町村にあたります。中央から派遣された国司(こくし)の権限が大きかったのも特徴です。

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遺跡として残る藤原宮跡の見どころ

藤原宮跡に建造物は残っていませんが、貴重な遺跡や資料の見学が可能です。古い時代の息吹を感じられるような見どころを紹介します。

大宮土壇

大宮土壇(おおみやどだん)」は、国の重要な儀式が行われた藤原宮の「大極殿(だいごくでん)」の基壇部分です。1934(昭和9)年から約10年にわたって行われた発掘調査で、藤原宮のあった場所と確定されました。

大宮土壇からは、大和三山が見渡せます。当時の天皇も、眺めの素晴らしさを楽しんだことでしょう。

藤原宮は、外を囲う大垣で人々の居住区と分けられていました。大垣には一辺に3箇所ずつ、合計12の門があったとされています。現在、いくつかの門の跡には、赤い列柱が立てられており、大宮土壇からも見ることができます。藤原宮の広さがどのくらいだったか、把握する目安になるでしょう。

藤原宮跡(奈良県橿原市)。赤い列柱が立てられた「朝堂院(ちょうどういん)南門跡」と、中央奥に見えるのは「耳成山」。朝堂院とは、日本古代の都城における宮城の正庁。

本薬師寺跡

本薬師寺(もとやくしじ)跡」とは、平城京で建てられた薬師寺(現在の奈良市西ノ京町)の前身とされる寺の跡です。藤原京内(現在の橿原市城殿町)にあったため、藤原薬師寺とも呼ばれています。建造物は残っていませんが、土壇や礎石の配置から大きな寺であったことがうかがえるでしょう。

本薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気快癒(かいゆ)を願って建立されました。しかし、建立の途中で天武天皇が崩御したため、持統天皇が藤原京遷都後に完成させています。

平城京へ遷都にあたって、伽藍(がらん、寺院の建物)はすべて移築したとされていました。しかし、近年では平城京の薬師寺は新たに建てられていて、本薬師寺とは別物だという説が有力になっています。

本薬師寺跡「金堂の礎石」(奈良県橿原市)。現在の金堂跡は、南北29m、東西36mの土壇に、花崗岩の方形座を備えた19個の礎石が残っており、そのうちの4個は医王院の「本堂や庫裏(くり)」に使用されている。本薬師寺は、11世紀初頭まで存続していたとされる。

本薬師寺跡(観光情報)|橿原市公式ホームページ

橿原市藤原京資料室

「橿原市藤原京資料室」は、遺跡ではありませんが、藤原京を訪れたらぜひ足を延ばしたい場所です。藤原宮大極殿跡の西側にあり、約6×7mの藤原京の1/1000スケール模型や、柱・瓦などの出土品が展示されています。

CGやアニメで再現された、当時の藤原京の暮らしを見るのも楽しいでしょう。橿原市藤原京資料室についての基本情報は以下のとおりです。

・住所:奈良県橿原市縄手町178-1(JAならけん橿原東部経済センター2階)
・開室時間:9:00~17:00(最終入室は16:30)
・休室日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月25日~1月5日)
・入室料:無料

橿原市藤原京資料室|橿原市公式ホームページ

藤原京を知って、日本の歴史を再確認しよう

藤原京は、平城京や平安京に比べると知名度は低いかもしれません。しかし、大宝律令の制定や条坊制の導入などの重要な出来事があった、日本の歴史において外せない場所です。

藤原京について知ることは、日本の歴史を再確認するきっかけにもなるでしょう。藤原京の近隣には、世界遺産の登録を目指す遺跡群も存在します。実際に現地を訪れて、古い時代の空気を感じてみるのもおすすめです。

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構成・文/HugKum編集部

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