鎌倉時代の「執権(しっけん)政治」について、内容をよく覚えていない人も多いのではないでしょうか。執権は将軍の補佐役ですが、やがて将軍を無力化して政治を牛耳るようになりました。日本初の武家政権、鎌倉幕府で起こった権力争いや、歴代執権の主な実績を紹介します。
執権政治の特徴とは?
執権政治とは、どのような政治体制だったのでしょうか。将軍と執権の関係も合わせて、特徴を見ていきましょう。
北条氏が実権を握った政治
執権政治は、将軍の家臣である北条(ほうじょう)氏が、鎌倉幕府で実権を握った政治体制を指します。
鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)は、父親が平清盛(きよもり)と争い、敗れたために伊豆(いず)に流され、地元の豪族だった北条氏の娘「政子(まさこ)」と結婚しました。
政子の父親「北条時政(ときまさ)」は頼朝の死後、政務の中心を担う役職・執権に就任します。時政の息子「義時(よしとき)」の代には頼朝の血筋が絶え、将軍の力は完全に失われました。
義時は反北条勢力を次々に倒し、執権政治の基礎を固めます。義時以降、執権職は北条氏の世襲制となり、鎌倉幕府が滅亡するまで続きました。
執権政治が確立した背景
将軍に従う御家人(ごけにん)は数多くいたにもかかわらず、北条氏が執権の座を独占できたのは、なぜでしょうか。
執権政治確立の背景を見ていきましょう。
北条氏の政治への介入
頼朝が亡くなり、息子の「頼家(よりいえ)」が2代将軍となったのは、まだ18歳のときでした。そこで、母親の政子と祖父の時政が、頼家のサポート役を務めます。
時政は、将軍の外戚(母方の親族)という立場を利用して、北条氏による独裁体制を築こうと考えました。しかし頼家は、政子や時政の政治介入を嫌い、側近を集めて自分で政治を動かそうとします。
その状況に対抗するべく、北条氏は謀略をめぐらせて、頼家の側近を排除し、ついには頼家を修善寺(しゅぜんじ)に幽閉します。次の将軍に頼家の弟「実朝(さねとも)」を擁立した時政は、執権に就任して実権を握り、翌年には頼家を暗殺してしまいました。
3代将軍に就任した実朝も、後に頼家の息子「公暁(くぎょう)」に襲われて、命を落とします(1219)。さらには、将軍を殺害した罪で公暁も捕らえられ、処刑されました。
この時点で頼朝の血を引く源氏の正統な後継者はいなくなり、執権が幕府の事実上のトップとなる執権政治が始まります。
承久の乱の勝利
「承久(じょうきゅう)の乱」は、政権奪還を目論む後鳥羽(ごとば)上皇と、2代目執権・北条義時との戦いです。この乱の背景には、朝廷から幕府への権力の移行が関係しています。
源頼朝が鎌倉幕府を開くまでは、朝廷が政治の中心でしたが、政権が武家に移ると、朝廷の力は弱まり、収入も激減してしまいました。
とはいえ、源頼朝を「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に任命したのは朝廷です。また、源氏は「清和(せいわ)天皇」を祖とする一族ですから、朝廷が面と向かって戦いを挑むわけにもいきません。
しかし、頼朝の直系の血筋が絶えたため、朝廷は幕府に遠慮する必要がなくなります。朝廷の中心にいた後鳥羽上皇は、幕府を倒す絶好の機会が到来したと考え、義時を追討するよう全国の武士に呼びかけたのです。
朝廷の反乱に、一度は動揺した幕府軍ですが、政子の演説などによって巻き返し、勝利をおさめます。将軍ばかりか、朝廷をも押さえつけた義時の功績により、北条一族の独裁体制が確立しました。
覚えておくべき歴代の執権
鎌倉幕府には、時政と義時を含めて、全部で16人の執権が存在しました。3代目以降で、特に覚えておきたい人物を4人紹介します。
御成敗式目を制定した北条泰時
3代目「北条泰時(やすとき)」は、義時の息子です。泰時は、叔父の時房(ときふさ)を執権の補佐役につけ、有力な御家人や実務に詳しい官僚とともに、会議で政策を決める「合議制」を導入しました。
このとき、裁判を公平に行うための法律「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定したことでも知られています。御成敗式目は、御家人が関わる争い事に限定した法律で、武家の習慣をもとに作成されました。
また、泰時は、港の建設や道路整備を積極的に行い、経済の発展にも貢献しています。
反執権勢力を一掃した北条時頼
泰時の死後、息子の「経時(つねとき)」が4代目執権になりますが、わずか4年で病死します。5代目執権には泰時の孫にあたる「時頼(ときより)」が就任しました。
時頼が執権になった直後、同じ北条一族の名門「名越(なごえ)氏」がクーデターを企てます。しかし時頼は、反執権勢力を一掃し、北条一族に次ぐ力を持つ「三浦氏」も滅ぼしました。
時頼は政治権力を全て北条氏本家に集中させ、世襲を前提とした本格的な専制政治を開始します。政局が安定すると、裁判制度の整備や国民の生活レベル向上を目指し、内政に力を注ぎました。
元寇を乗り越えた北条時宗
8代目の「北条時宗(ときむね)」は、「元寇(げんこう)」を乗り越えた執権として知られています。元寇は、当時の中国を支配していた「元(げん)」が、日本に侵略しようと、2度にわたって攻め込んできた事件です。
元は当時、世界的にも強大な軍事力を持っており、日本は圧倒的に不利な状況でした。しかし、御家人たちは、時宗のもとで団結してよく戦い、元軍を追い返すことに成功します。2度目の襲来時は上陸すら許さず、天候が味方したこともあって、元軍は撤退していきました。
最後の執権、北条守時
16代目の「北条守時(もりとき)」は、鎌倉幕府最後の執権です。元寇という脅威を乗り越えたものの、戦費がかさんだ幕府の財政は傾き、恩賞をもらえなかった御家人は、不満を募らせていました。
1333年(元弘3)、ついに御家人の「新田義貞(にったよしさだ)」や「足利尊氏(あしかがたかうじ)」が立ち上がり、鎌倉幕府は倒されます。守時は鎌倉に攻め込んできた新田義貞の軍勢と戦って、討ち死にしてしまいました。
後に、京都で室町幕府を開いた足利尊氏は、守時の義理の弟にあたります。妹の夫に反旗を翻された守時でしたが、執権の名に恥じない、立派な最期だったと伝わっています。
鎌倉幕府を動かした執権政治
源頼朝が開いた日本初の武家政権である鎌倉幕府は、妻の実家の北条氏に、あっけなく乗っ取られてしまいました。将軍ではない一族が、幕府のトップに居座り続けた執権政治は、日本史上、他に例がない特殊な政治体制といえます。
とはいえ、有力な御家人や朝廷勢力を退け、元の大軍まで追い払ったのですから、実力は本物だったのでしょう。将軍に代わって武家政権を維持した北条氏と執権政治について、もう一度学んでみると、歴史がもっと面白く感じられるかもしれません。
また、2022年、来年のNHK大河ドラマは、まさに鎌倉時代の執権政治を担った、二代執権・北条義時が主人公の『鎌倉殿の13人』です。三谷幸喜の脚本で、義時を小栗旬が演じます。頼朝は大泉洋、義経は菅田将暉、そして北条政子は小池栄子と豪華キャストで、6月10日、クランクインしました。
時代背景をもっと深く知りたい方のために
この頃の時代背景や歴史的経緯をさらに深く知りたい方のために、参考図書をご紹介します。
小学館版 学習まんが はじめての日本の歴史 5
全15巻の新・日本史学習まんがシリーズ。この5巻では、源頼朝が征夷大将軍となり、武士が政治の実権をにぎり始めた鎌倉時代から、後醍醐天皇が吉野に朝廷を開き、二つの朝廷・二人の天皇が並び立った南北朝時代までを扱います。
元寇とはどんな戦いだったのか? 後鳥羽上皇や後醍醐天皇はなぜ幕府を倒そうとしたのか? 二人の天皇が並び立つ前代未聞の南北朝時代はどのように誕生したのか? 等のエピソードが描かれています。
小学館文庫 「蒙古襲来 転換する社会」
二度にわたるモンゴル軍の来襲は、鎌倉幕府にとっても、御家人・民衆にとってもこれまでにない試練でした。中世における外国軍との戦いを掘り下げることで、この時代の国や民のあり方、歴史的なあらたな発見を見出していきます。
逆説の日本史6 中世神風編 「鎌倉仏教と元寇の謎」
ロングセラー「逆説の日本史」の文庫版。「神国」ニッポンは元寇勝利の“奇蹟”により何を失ったのか。鎌倉幕府滅亡の背景を掘り起こしながら、カミカゼという天恵による勝利信仰がその後の日本に及ぼした影響についても論じています。歴史によってつくられる国民精神について、その考察が興味深い一冊です。
構成・文/HugKum編集部