明治維新とは?
「明治維新(めいじいしん)」とは、そもそも何を指す言葉なのでしょうか。明治維新の概念を見ていきましょう。
明治時代初期に起きた変革
明治維新とは、一つの事件を指す言葉ではありません。19世紀後半の日本で起こった、政治的・社会的な変革をまとめて「明治維新」と呼んでいます。
いつからいつまでを明治維新と呼ぶのかについては、さまざまな考え方があります。一般的には、1853(嘉永6)年のペリー来航から、明治政府が近代化政策を打ち出すまでの期間を指すと考えてよいでしょう。
なお、当時の人は、明治政府が実施した一連の改革を「御一新(ごいっしん)」と呼んでいました。明治維新の言葉も、御一新が起源となっています。
明治維新の中心人物
明治維新では、多くの人物が活躍しました。特に覚えておきたいのが、「維新三傑(いしんさんけつ)」と呼ばれる3人です。それぞれの人物像を簡単に解説します。
木戸孝允
木戸孝允(きどたかよし)は、長州藩の代表として倒幕に尽力した人物です。本名は桂小五郎(かつらこごろう)ですが、後に藩命により木戸に改姓しています。
桂小五郎時代には、尊王攘夷派のリーダーとして活動しており、新撰組(しんせんぐみ)に命を狙われていました。木戸に改姓した後は、藩政改革を進め、敵対していた薩摩藩と同盟を結ぶなど、明治維新の立役者となります。
明治政府に入った後は「五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)」を起草したり、岩倉使節団に副使として参加したりと、近代国家への基礎づくりに貢献しました。
西郷隆盛
西郷隆盛(さいごうたかもり)は、薩摩藩の下級武士の家に生まれ、努力の末に藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)の側近に取り立てられた苦労人です。斉彬に従って、京都や江戸で活動するうちに、日本の将来について考えるようになります。
後に、薩摩軍の最高司令官となった西郷は、同郷の大久保利通(おおくぼとしみち)とともに、藩の方針を公武合体(こうぶがったい)から倒幕へと動かします。1866(慶応2)年には、長州藩の木戸孝允と会談して薩長同盟を結び、倒幕運動を加速させました。
明治政府では廃藩置県(はいはんちけん)に一役買ったほか、岩倉使節団の海外訪問中の留守を預かり、近代化政策を実行しています。
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大久保利通
大久保利通も西郷隆盛と同じく、薩摩藩の下級武士の出身です。西郷とは、同じ町内で生まれ育った幼なじみでした。若い頃から政治能力に長け、島津斉彬亡き後に、藩の実権をにぎった島津久光(ひさみつ)の側近となり、藩政に関わります。
西郷とともに薩長同盟を実現させたり、公家(くげ)の岩倉具視(いわくらともみ)に接近して朝廷とつながったりと、大久保は着々と倒幕への足がかりを築きました。
明治政府成立後は、岩倉使節団に参加し、帰国後の政策に海外で得た知見を生かします。大蔵卿(おおくらきょう)や内務卿などの要職を歴任し、地租改正や殖産興業などを実行して国の経済力強化に努めました。
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明治維新が起きた時代背景
明治維新の最中、日本では何が起きていたのでしょうか。維新のきっかけとなった出来事を、時代の流れに沿って見ていきましょう。
ペリー率いる黒船の来航
1853年、アメリカのペリーが黒船と呼ばれた軍艦を率いて日本に来航します。それまで、幕府は外国との交渉を断り続けていましたが、ペリーは武力をちらつかせて強硬に開国を迫りました。
軍艦の威容を目の当たりにした幕府の首脳陣は、開国もやむを得ないと判断します。天皇の許可を待たずに「日米和親条約」や「日米修好通商条約」に調印し、他の国とも同様の条約を締結しました。
しかし、条約が日本にとって不利な内容だったため、国民の生活は一気に苦しくなります。当時の孝明(こうめい)天皇が外国人を嫌っていたこともあり、勝手に開国した幕府への不満は高まっていきました。
徳川慶喜による大政奉還
国内の世論は、あくまでも外国人を排除したい「攘夷派(じょういは)」と、開国して欧米諸国に学び、近代化を進めるべきとする「開国派(かいこくは)」で対立します。
天皇の許可なく条約を結んだ幕府に対して、政治を任せておけないと考える人が増え、倒幕運動も盛んになりました。一方、幕府は朝廷と協力して国難に対応する「公武合体」を進めます。
しかし、朝廷との交渉はうまくいかず、薩摩藩や長州藩といった有力な藩が武力による討幕を計画する事態となりました。15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は内戦を避けるため、自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還(たいせいほうかん)」を行います。
長く日本を統治してきた江戸幕府は消滅し、天皇を中心とした政治体制がスタートすることになりました。
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戊辰戦争の勃発
鎌倉幕府成立以降、ほとんど政治に関わっていなかった朝廷は、体制が整うまでの間、慶喜や旧幕府関係者に実務を委任することになります。
以前と変わらず、徳川家が政治の実権をにぎっている状況に怒った倒幕派は、新政府の樹立を宣言する「王政復古(おうせいふっこ)の大号令」を発して、慶喜を政権から締め出しました。
それでも、260年以上続いた徳川家を慕う人は多く、なかなか力を抑えることができません。徳川家が存続する限り改革が進まないと考えた新政府は、旧幕府勢力を挑発して戦争に持ち込みます。
1868(慶応4)年に起こった戊辰(ぼしん)戦争によって、慶喜は徳川家の居城・江戸城を明け渡して謹慎の身となり、今後は政治に関わらないことを誓うのです。
明治政府が実権をにぎる
戊辰戦争の勝利で、旧幕府勢力から政治の実権を奪った新政府は、元号を「明治」に変え、新たな政治体制をスタートさせます。「江戸」を「東京」と改め、天皇を江戸城に移して首都機能を整えました(1868)。
このとき、政府の基本方針として発布されたのが、木戸孝允が起草に関わった「五箇条の御誓文」です。広く意見を求め、話し合いで政治を行うことや、外国の進んだ文明を積極的に取り入れて国を発展させることなどが書かれています。
以降の明治政府は、日本を近代国家とするため、さまざまな改革に着手していくのです。
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明治維新後の日本に起きた変化とは?
明治政府が実施した政策の多くは、国民の生活にも大きな影響を与えました。明治維新後に起こった、大きな変化を二つ紹介します。
民衆の生活様式
明治維新後の生活の変化を象徴する言葉に「文明開化(ぶんめいかいか)」があります。明治政府が積極的に欧米の文明を取り入れて国民に推奨したことで、それまでの伝統的な暮らしが一変したことを表す言葉です。
食生活では、牛乳や牛肉が広まり、パンも食べられるようになります。着るものも「和服」から「洋服」へ変わり、小物やヘアスタイルも洋装に合うものが流行しました。
1日が24時間で、1週間は7日間となったのもこのときです。日曜日が休日と定められ、労働環境も変化しました。
なくなった身分制度
江戸時代には、支配階級である武士とその他の人々の間に、大きな身分の壁がありました。例えば、農民が武士になれるチャンスは極めて少なく、武家の娘が商人と結婚することも難しかったようです。居住地も、武士・町人・農民で分けられていました。
明治政府は、国民はすべて平等な立場であるとして、旧来の身分制度を廃止します。元公卿や大名は「華族(かぞく)」、武士は「士族(しぞく)」、その他は「平民(へいみん)」と呼び方が変わりました。
これにより、華族と士族間および平民同士の場合、職業や居住地、結婚は原則自由化されます。しかし、実際には、身分差別の意識は根強く残り、本当の意味で平等な社会とはいえなかったようです。
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明治維新により新しい時代へ
もともと開国の是非を巡って起こった改革の波は、古い体制を飲み込み、新しい時代を出現させる原動力となりました。明治維新によって日本の近代化は急速に進み、世界との交流も始まります。
幕府が、ペリーの要求をはねつけていたら、徳川慶喜が大政奉還しなかったら、日本はどうなっていたのでしょうか。明治維新の一連の出来事について、親子で話し合ってみるのもよい勉強になるかもしれません。
もっと知りたい人のための参考図書
小学館版 学習まんが 少年少女日本の歴史17「明治維新」(明治時代前期)
小学館版 学習まんが 少年少女日本の歴史 スペシャルセレクション「まるわかり幕末維新」
ポプラ社 コミック版 日本の歴史14「明治維新―歴史を変えた日本の戦い」
アスコム 日本一の社会科講師が教える「読んだら忘れない 明治維新」
彩図社 森田健司「外国人が見た 幕末明治の日本」
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構成・文/HugKum編集部