豊臣秀頼とはどんな人物?
豊臣秀頼(とよとみひでより)は、安土桃山時代から江戸時代の前期を生きた人物です。生まれながら「天下人の後継ぎ」を期待され、幼くして豊臣政権の当主となりました。秀頼とは、どのような人物だったのでしょうか?
太閤・豊臣秀吉の息子
秀頼は1593(文禄2)年、豊臣秀吉と淀殿(よどどの)の間に生まれました。父・秀吉は、貧しい農民の出身から織田信長の有力武将の一人となり、天下統一を果たした人物です。信長の草履(ぞうり)を懐で温めていた話を聞いたことがある人も多いでしょう。
母・淀殿は秀吉の側室で、父は浅井長政(あざいながまさ)、母は信長の妹に当たるお市の方(おいちのかた)です。
秀頼は、秀吉が57歳のときに生まれた子どもで、「拾丸(ひろいまる)」という幼名を名付けられました。ある文献によると、秀頼は身長約6尺5寸(約197cm)の並外れた大男に成長したといわれています。
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豊臣政権の第2代当主
1598(慶長3)年に秀吉が63歳で亡くなると、秀頼は豊臣政権の第2代当主となります。わずか6歳と幼かったため、政権運営は家臣である五大老(ごたいろう)と五奉行(ごぶぎょう)に委ねられました。
秀吉の遺言により、秀頼は11歳で千姫(せんひめ)と結婚します。千姫は淀殿の妹・江(ごう)の娘であり、五大老・徳川家康(とくがわいえやす)の孫に当たりました。秀吉は家康が天下を治めることを予感し、2人の婚姻によって豊臣家を存続させようとしたといわれています。
しかし秀吉の願いはかなわず、豊臣家と徳川家の対立によって、秀頼は自害に追い込まれます。秀頼の死去により、豊臣家の時代は幕を閉じました。
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豊臣秀頼の波乱に満ちた生涯
天下人の後継ぎでありながら、秀頼は天下を手中に収められませんでした。秀吉の死後は、多くの争いに巻き込まれ、最後は母・淀殿と自害する道を選びます。秀頼の波乱に満ちた生涯を見ていきましょう。
関ヶ原の戦い後に大名へ格下げ
秀吉の死後は、五大老の一人である家康が存在感を強めます。五奉行の石田三成(いしだみつなり)は、家康が政権を握ることを恐れ、戦いを挑みます。
1600(慶長5)年、家康が率いる「東軍」と三成が率いる「西軍」が争う「関ヶ原の戦い」が勃発しました。戦いに勝利した家康は、豊臣家の領地の多くを東軍の武将に分け与え、自らも加増します。
さらに1603(慶長8)年には征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、江戸に幕府を開いて政権を手中にしました。この時点で徳川家と豊臣家の立場が逆転、秀頼は天下人の後継ぎから一大名へ格下げとなります。
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方広寺鐘銘事件で徳川家と対立
徳川家と豊臣家の対立が深まるのが、1614(慶長19)年に起きた「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」です。方広寺とは、秀吉が生前に建立した天台宗の寺です。
秀頼が方広寺の大仏殿を再建した際、徳川家は豊臣家に開眼供養(かいげんくよう)の延期を命じます。鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に対し、「徳川家を呪い、豊臣家の繁栄を祝うものである」と言いがかりをつけたのです。
事件以前から徳川政権と豊臣家の間にあった対立は、この事件で急速に悪化し「大坂の陣」が勃発します。
大坂の陣が豊臣家の終焉へつながる
方広寺鐘銘事件に端を発した両家の争いは、「大坂の陣」と呼ばれます。1614(慶長19)年の11~12月に起きた「大坂冬の陣」と、1615(慶長20)年の4~5月に起きた「大坂夏の陣」の総称で、豊臣家が滅亡するきっかけとなりました。
開戦後、徳川方の幕府軍が秀頼のいる大坂城を包囲すると、城内への砲撃を恐れた母・淀殿は、和睦(わぼく)を承諾します。この際、幕府軍から豊臣家に対して「大坂城の外堀を埋める」という条件が出されました。
大坂冬の陣は和議で終わりましたが、翌年の4月に大坂夏の陣が起こり、大坂城が落城します。秀頼は淀殿との自害を選び、23歳の若さでこの世を去りました。
親子で訪れよう!豊臣秀頼のゆかりの地
秀頼は、父・秀吉のような大きな功績は残せませんでしたが、大阪や京都には秀頼が生きた形跡が残っています。秀頼ゆかりの地を親子で尋ねてみましょう。
大阪府「玉造稲荷神社」
大阪市中央区玉造にある「玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)」は、紀元前12年頃に建てられた神社です。秀吉が大坂城を築いた際には、大坂城の鎮守神としてあがめられました。
その後の兵乱によって焼失しましたが、1603(慶長8)年に秀頼によって社殿・高殿(舞台)が再建されています。
境内には、秀頼と淀殿を結ぶ卵膜(らんまく)や胎盤(たいばん)を鎮める「胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)」があるほか、秀頼が神社を再興した際に奉納した鳥居が保存されています。
出典:玉造稲荷神社: ホーム
大阪府「大阪城」
秀頼と淀殿の最後の地となった大坂城は、1496(明応5)年に創建された「石山本願寺」が前身です。石山本願寺は信長と約10年にわたって争った後に焼失しており、信長の死後、その跡地に秀吉が築城しました。
一説によると、2人は城の敷地内にある「山里曲輪(やまざとくるわ)」の土蔵で自害したといわれています。山里曲輪は、軍事的な目的を持たない区域の名称で、茶室や庭園などが設けられていました。
大阪城は、江戸幕府によって再建されましたが、明治維新の動乱によって再び焼失しています。なお、大阪を「大阪」と表記するようになったのは、1871(明治4)年です。それ以前は「大坂」と表記されていたことも覚えておきましょう。
出典:大阪城天守閣
京都府「清凉寺」
「清凉寺(せいりょうじ)」は、京都府の京都市右京区にある浄土宗の寺院です。本尊は釈迦如来(しゃかにょらい)で、本堂の釈迦堂は、1602(慶長7)年に秀頼が寄進・造営したといわれています。
その後、嵯峨大火(さがたいか)によって一部が消失しましたが、徳川家の5代将軍である綱吉らによって再興されています。
1980(昭和55)年、大阪城三の丸跡の発掘現場から、秀頼のものと思われる頭の骨が出土しました。秀頼にゆかりのある清凉寺に首塚が作られ、毎年5月8日には「豊臣秀頼公忌(とよとみひでよりこうき)」が執り行われています。
豊臣秀頼は豊臣家の最後の当主
秀頼は、秀吉の息子であり、豊臣家の最後の当主です。天下人の後継ぎを期待されて育つものの、家臣の権力争いに巻き込まれ、波乱万丈の生涯を歩みました。
秀吉のような華やかな功績は残せませんでしたが、大阪や京都には、秀頼が再建した神社や寺院が残っています。ゆかりの地を訪れることで、秀頼がどのような人物であったのかをより深く理解できるでしょう。
豊臣家の歴史や秀頼の最後に思いを馳せながら、親子で訪ねてみるのも楽しみ方の一つです。
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構成・文/HugKum編集部