「征夷大将軍」って何者? 歴代の有名な征夷大将軍と、気になるこぼれ話まで【親子で歴史を学ぶ】

征夷大将軍という役職は、武士が台頭すると同時に歴史上で何度も登場します。その成り立ちと役割とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。概要を解説するともに、歴史の流れに沿って、歴代の征夷大将軍となった有名な人物について紹介します。

征夷大将軍の始まりと役職の変遷

「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」という言葉を歴史の授業で習ったことがあっても、「征夷」とは、そもそも何だろうと疑問に思っている人もいるでしょう。

役職が生まれた当初、「未開(東北)の蝦夷(えみし)を征伐する」という意味でしたが、鎌倉幕府以降でその役割が変化しています。

もともとは蝦夷を征伐する軍の総大将

奈良を中心に栄えた大和政権の時代には、蝦夷がすでに力を持っていました。蝦夷とは、主に東北地方に住んでいた、言葉や風習などの文化が都と異なる人々のことです。

脅威に感じていた朝廷は、何度も大軍を送り、蝦夷を服従させようとしました。この軍の総指揮官が「征夷大将軍」です。役職名として「蝦夷を征伐する」という意味の「征夷」が付いたのは、こうした背景があったからです。

ただ、征夷大将軍という役職名が定着したのは、少し後のことで、最初は「征夷将軍」「征東使(せいとうし)」など、さまざまな呼称がありました。その後、征夷大将軍の役職は、平安時代初期に蝦夷が平定されたことでいったん廃絶します。

鎌倉時代以降は、武士の最高職という意味に

征夷大将軍が再び歴史上に現れるのは、平安時代後期に入ってからです。この頃は、朝廷の内紛が原因で、平氏(へいし)と源氏(げんじ)が激しく争っていました。

この源平合戦の最中である1184(元暦元)年、功績をあげた源氏の武将・木曽義仲(きそよしなか)に、征夷大将軍にあたる役職が与えられます。なお、このとき与えられた役職は、征東大将軍であったという説もあります。

鎌倉時代に入ると、朝廷に代わって武士が政治を行う「武家政権」が始まりました。この時代以降、征夷大将軍はすべての武士の頂点に立つ人物を象徴する役職になったのです。

歴代の有名な征夷大将軍【鎌倉時代】

鎌倉時代以降の征夷大将軍は、鎌倉・室町・江戸という三つの時代に、それぞれ絶対的権力を誇った人々でもあります。まずは鎌倉時代の征夷大将軍から、特に有名な二人について見ていきましょう。

武士の時代の始まり「源頼朝」

源頼朝(みなもとのよりとも)は、鎌倉時代の初代将軍です。1192(建久3)年に、朝廷から征夷大将軍に任命されています。平氏を破って大きな力を持った頼朝ですが、源平合戦の真っただ中で少年時代を過ごした人生は、決して平坦ではありませんでした。

「平治の乱」で源氏が敗れた際には、伊豆(いず)に流されてしまいます。長らく幽閉生活を送っていましたが、1180(治承4)年に以仁王(もちひとおう、源頼政)が平家打倒の令旨(りょうじ)を出して宇治平等院(うじびょうどういん)の戦いに敗れた後に、平氏討伐のため挙兵しました。

大きな転機となったのは、1185(文治元)年に起きた「壇ノ浦(だんのうら)の戦い」です。源義経(よしつね)の活躍により、この戦いで平氏を打ち破った頼朝は、やがて政治の実権を手にし、武士が支配する武家政権を築いたのです。

源頼朝坐像(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)。頼朝が鎌倉入りを果たした1180年から800年を記念して、源氏山公園に建てられた銅像。公園のすぐそばに鎌倉七切通しの一つ「化粧坂(けわいざか)」がある。また近くには「銭洗い弁天」「佐助稲荷」などもある。
源頼朝坐像(神奈川県鎌倉市扇ガ谷)。頼朝が鎌倉入りを果たした1180年から800年を記念して、源氏山公園に建てられた銅像。公園のすぐそばに鎌倉七切通しの一つ「化粧坂(けわいざか)」がある。また近くには「銭洗い弁天」「佐助稲荷」などもある。

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若くして暗殺された将軍「源実朝」

源実朝(さねとも)は、鎌倉幕府の3代将軍で、頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ)の間の次男として誕生します。兄・頼家(よりいえ、第2代将軍)は比企(ひき)一族を後見としていましたが、実朝の後ろ盾は北条氏でした。

1203(建仁3)年に比企一族が北条氏に滅ぼされ、実朝が征夷大将軍となったのは12歳のときです。当時は、生まれたときを1歳として、元日がくるたびに1歳加算する数え方である「数え年」を用いていたため、満年齢でいうとわずか11歳でした。

とはいえ、政治の実権は執権(しっけん)・北条氏がにぎっていたため、実朝が政治に関わることはほとんどなかったそうです。実朝自身は、和歌を愛する雅やかな人物でしたが、1219(建保7)年、数え年にして28歳の若さで暗殺されてしまいます。

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歴代の有名な征夷大将軍【室町時代】

武家政権となっていた鎌倉時代でも、朝廷が完全に力を失っていたわけではありません。政治の実権を取り戻そうとする勢力により、新しい時代が始まります。

鎌倉幕府を滅ぼした武将「足利尊氏」

鎌倉時代後期、立場の弱かった後醍醐(ごだいご)天皇は、北条氏に反感を持つ武士を味方につけて倒幕を実現しました。その武士の一人が足利尊氏(あしかがたかうじ)です。

やがて後醍醐天皇は武家政権の復活を恐れ、尊氏と対立するようになります。そこで尊氏は、別の親王を皇位につけ、1338(延元3・暦応元)年に征夷大将軍になると、京に室町幕府を開いて武家政権を取り戻したのです。

しかし、比叡山(ひえいざん)に逃れた後醍醐天皇も、自身の皇位を主張して新たな朝廷を開きます。足利尊氏による室町幕府の始まりは、朝廷が分断された「南北朝時代」の幕開けでもあったのです。

征夷大将軍足利尊氏公像(栃木県足利市)。尊氏の正確な生誕地は不明。下野国足利荘(栃木県)、丹波国上杉荘(京都府)、相模国鎌倉(神奈川県)などの説がある。鎌倉説が最有力? この束帯姿の像は大日大門通り沿い。
征夷大将軍足利尊氏公像(栃木県足利市)。尊氏の正確な生誕地は不明。下野国足利荘(栃木県)、丹波国上杉荘(京都府)、相模国鎌倉(神奈川県)などの説がある。鎌倉説が最有力? この束帯姿の像は大日大門通り沿い。

南北朝の統一を果たした実力者「足利義満」

足利義満(よしみつ)は、室町幕府の3代将軍で、尊氏の孫にあたります。尊氏の時代に南北二つに分かれた朝廷は、義満の時代でも迷走を続けており、南朝・北朝に二人の天皇が存在していました。

義満は非常に優れたリーダーであり、室町時代随一の権力者でもありました。1392(元中9・明徳3)年には南北に分かれた朝廷を合し、50年以上続いた南北朝時代が終わりを告げたのです。

さらに、当時の中国王朝の明(みん)と貿易を行い、幕府は経済的に大きく発展しました。京都の鹿苑寺金閣(ろくおんじきんかく)に代表される「北山文化」も、義満の時代に栄えたものです。

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歴代の有名な征夷大将軍【江戸時代】

室町時代に続くのは、260年以上続いた江戸時代です。江戸幕府の征夷大将軍には有名な人が多くいますが、なかでも特に名の知れた二人の将軍を紹介します。

天下泰平の世の幕開け「徳川家康」

江戸幕府の初代将軍は、誰もが知る武将・徳川家康(とくがわいえやす)です。家康は江戸幕府が開かれた1603(慶長8)年に、還暦を過ぎてから征夷大将軍になりました。1616(元和2)年には太政(だいじょう)大臣にも任命されています。

幼少期は織田家・今川家の人質として過ごしましたが、戦乱の世を忍耐力で乗り越え、ついには将軍にまで上り詰めます。家康はわずか2年で将軍職を息子の秀忠(ひでただ)に譲りますが、その後も「大御所(おおごしょ)」として権力を振るいました。

「武家諸法度」「一国一城令」などを考案し、江戸幕府の力を盤石なものとしたのも家康です。貿易や文化にも興味を示し、江戸の経済的・文化的発展の礎をつくった人物でもあります。

徳川家康公鷹狩り像(静岡市葵区駿府城公園内)。家康は今川家の人質として暮らした8~19歳のころ、駿府城を築城(1585)し近隣5か国を支配した壮年時代、65歳から亡くなる75歳までの晩年10年間を、この駿府で過ごしている。写真は、鷹狩りに出かける晩年の家康。
徳川家康公鷹狩り像(静岡市葵区駿府城公園内)。家康は今川家の人質として暮らした8~19歳のころ、駿府城を築城(1585)し近隣5か国を支配した壮年時代、65歳から亡くなる75歳までの晩年10年間を、この駿府で過ごしている。写真は、鷹狩りに出かける晩年の家康。

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最後の征夷大将軍「徳川慶喜」

徳川慶喜(よしのぶ)は、歴史上最後の征夷大将軍となった江戸幕府の15代将軍です。徳川御三卿(ごさんきょう)の一つである一橋家(ひとつばしけ)の養子に入っており、一橋慶喜の名でも知られています。

1867(慶応3)年、慶喜は明治天皇を擁立する倒幕派の勢いに屈し、二条城で「大政奉還(たいせいほうかん)」を行いました。大政奉還とは政権を朝廷に返すこと、つまり武家政権の終焉(しゅうえん)を意味します。

慶喜は大政奉還後も徳川家の権力を維持しようとしましたが、徳川家を排除しようと出された「王政復古の大号令」と、続く戊辰(ぼしん)戦争の敗戦により、徳川家は完全に政権を失ったのでした。

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征夷大将軍に関するこぼれ話

征夷大将軍について調べていると、「これは、どういうことだろう?」と引っかかる部分が出てくるかもしれません。そこで、よくある疑問についてまとめました。

初代は坂上田村麻呂ではなかった?

初代の征夷大将軍は、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)であると記憶している人も多いのではないでしょうか。しかし、初代は794(延暦13)年に任命された大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)です。

田村麻呂は、弟麻呂の副将軍であり、実戦部隊の総指揮官として大活躍しました。田村麻呂は、その後の801(延暦20)年に征夷大将軍として、蝦夷討伐を成し遂げます。

ただ、弟麻呂は、まず「征東大使」として任命され、途中で役職が征夷大将軍に変わったとされているため、最初から征夷大将軍として任命されたのは田村麻呂ということになります。

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征夷大将軍と、摂政・関白・太政大臣の違い

武家政権の時代には、摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)・太政大臣など、征夷大将軍以外にも強い権力を持つ役職がありました。これらと鎌倉時代以降の征夷大将軍の役割を比較してみましょう。

征夷大将軍:武家の棟梁(とうりょう)、武士における最高権力者
摂政:天皇が子ども・女性・病気などの場合の補佐役
関白:成人した天皇の補佐役
太政大臣:律令制における官庁の最高職

征夷大将軍は武家のトップですが、そのほかはすべて朝廷側の役職です。最高職であるという点では、征夷大将軍と太政大臣は似ているかもしれません。

しかし、平安時代以降の朝廷で、政治の実権をにぎったのは摂政や関白で、太政大臣は貴族としての名誉職となっていったようです。

征夷大将軍の役割は、時代とともに変化した

征夷大将軍はもともと、蝦夷を征伐するための官職でした。本来の意味での征夷大将軍としては、坂上田村麻呂が広く知られています。

蝦夷征伐が終わった後、鎌倉時代以降の征夷大将軍は、武士の頂点に立つ人物が任命される役職となりました。名を連ねるのは、源頼朝・足利尊氏・徳川家康などそうそうたる顔ぶれです。

歴史上の有名人が征夷大将軍に任命された背景を追ってみると、生き生きとした人物像が浮かび上がってくるようです。歴史のつながりを意識してみると、征夷大将軍について、より理解しやすくなるかもしれません。

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構成・文/HugKum編集部

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