「日英同盟」は、明治時代後半に結ばれた軍事同盟です。世界情勢の変化に伴い、20年余りでその役目を終え、破棄されました。日英同盟を学ぶことで、当時の日本や世界の情勢が理解しやすくなるでしょう。同盟の意義や経緯について、分かりやすく解説します。
そもそも日英同盟とは?
開国(1854年に日米和親条約が締結され、日本の開国が始まる)以来、日本はさまざまな国と条約を結びますが、そのほとんどが日本にとって不利な内容でした。日英同盟は、日本が初めて欧米の先進国と対等な立場で結んだ条約としても知られています。
締結の時期や経緯など、日英同盟の基礎知識を見ていきましょう。
日本とイギリスの同盟
日英同盟はその名の通り、日本とイギリス(英国)の間で1902年(明治35)に結ばれた軍事同盟です。05年と11年の2度にわたり内容が更新され、それぞれ第二次日英同盟、第三次日英同盟と呼ばれています。
両国の同盟関係は、第一次世界大戦の戦後処理が終わるまで続き、21~22年のワシントン会議によって終了しました。
同盟を結んだ理由
イギリスと日本が同盟を結んだ最大の理由は、ロシアのアジア進出への対抗です。当時のロシアは強大な軍事力を誇り、世界中に恐れられた存在でした。
中国の植民地支配を進めていたイギリスをはじめとするヨーロッパの国々は、アジアへの侵攻を始めたロシアを警戒するようになります。
日本も日清(にっしん)戦争で勝ち取った領土(遼東<りょうとう>半島)を返還させられたことから、ロシアへの強い敵対心を持っていました。
しかし、どちらも単独でロシアに対抗できる状況ではありません。そこで、ロシアを警戒している国同士で同盟を結び、協力体制を敷くことにしたのです。
日英同盟を結ぶに至った二国の背景
公平な同盟は、お互いの利害が一致して、初めて成立します。日本とイギリスの利害は、どこで一致したのでしょうか。二国が同盟を結ぶに至った背景を見ていきましょう。
日本の場合
1895年(明治28)、日清戦争に勝利した日本は、下関条約により遼東半島を手に入れました。しかし、まもなくロシア・フランス・ドイツの「三国干渉(さんごくかんしょう)」を受け、遼東半島を清に返還させられます。
ところがロシアは、清に恩を着せる形で遼東半島を借り上げ、軍事拠点に利用するようになりました。領土を横取りされたと感じた日本は納得できず、国民の反ロシア感情も日増しに高まっていきます。
さらに、ロシアは、1900年に起こった「義和団(ぎわだん)事件」をきっかけに満州(まんしゅう)へ進出し、朝鮮半島にも手を伸ばしはじめます。朝鮮侵略を目論んでいた日本は、ここでもロシアと敵対することになりました。
日本政府はなんとか戦争を避けようと尽力しますが、結局、失敗に終わります。ロシアとの開戦を覚悟した日本は、資金調達や後方支援を期待してイギリスとの協力体制を築いたのです。
イギリスの場合
一方、インドや清の一部を支配していたイギリスは、ロシアのアジア進出が、自国の利益をおびやかすと考えていました。
ロシアはアジアへの進出をスムーズに行うために、冬でも使える港(不凍港)を確保しようと、黒海(こっかい)やカスピ海方面への侵略も進めており、アジアへの航路をにぎっていたイギリスは、さらに警戒を強めます。
しかし、イギリスは、他の地域での戦争に忙しく、ロシアと戦う余裕がありませんでした。そこで、当時、最もロシアと敵対し、軍事力強化に励む日本を支援することで、ロシアの進出を阻もうとしたのです。
日英同盟の内容とは
日英同盟では、日本とイギリスの間で、三つの約束が取り交わされました。それぞれの具体的な内容を解説します。
中国・韓国での利権を認める
第一の約束は、日本とイギリスが清に対して所有していた利権を、互いに認めて擁護することです。日本の場合は清のほかに、韓国での利権も含まれます。
1905年(明治38)の第二次日英同盟では、インドにおけるイギリスの利権も認められました。
同盟国の第三国との戦争では、中立を守る
第二の約束は、日英の一方が第三国と戦争中、もう一方は中立の立場を守るという内容です。この約束によって日本はイギリスを敵に回す心配がなくなり、日露戦争を有利に戦えるようになりました。
第二次日英同盟では、「他の国から攻撃された場合は、お互いに軍事的援助を行う」と、より踏み込んだ内容に発展しています。
同盟国が二国以上と戦争する際は共同で戦う
第三の約束は、一方が2カ国以上の国と戦争する際に、共同で戦うことを義務付けるものです。
当時はロシアとフランスが同盟を結んでおり、ロシアと戦争すれば、もれなくフランスが敵に回る状況にありました。
フランスの動きを封じるためにも、この約束は欠かせなかったのです。実際に日露(にちろ)戦争が起こったとき、イギリスの参戦を恐れたフランスは、ロシアを支援できませんでした。
日英同盟を結んでからの概要
日露戦争の直前に結ばれた日英同盟は、その後、どのような経緯をたどったのでしょうか。日本とイギリスの協力関係と、破棄に至るまでの世界情勢の変化を見ていきましょう。
1904年の日露戦争
同盟の効果が最も発揮されたのは、1904年(明治37)に起きた日露戦争です。
下関条約で得た賠償金も底をついていた日本は、戦費の3割ほどを同盟国のイギリスと、アメリカの資産家から調達することに成功し、やっとの思いで開戦にこぎつけます。
また、日英同盟のおかげでフランスなどの他の国が参戦しなかったため、日本は少ない予算でロシアとの戦いに集中できました。
東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が率いる連合艦隊が、世界最強と恐れられていたロシアのバルチック艦隊に勝てたのも、イギリスの協力があったからです。
当時は、ヨーロッパからアジアへ向かう近道「スエズ運河」をイギリスが支配(1882~1956)しており、バルチック艦隊は通行できません。
やむなくアフリカ大陸をまわって日本を目指すことになりますが、途中にある港のほとんどがイギリスの領地だったため、艦隊は燃料や食糧を十分に補給できませんでした。
長い航海と慣れない気候・風土に兵士の士気は著しく低下し、日本海海戦で惨敗を喫することになったのです。日英同盟がなければ、弱小国の日本が大国のロシアに勝利することもなかったでしょう。
1914年の第一次世界大戦
1914年(大正3)に始まった第一次世界大戦では、日本は日英同盟に基づいて、イギリスの対戦相手だったドイツに宣戦布告します。
日本軍は、中国の山東(さんとう)省にあるドイツの植民地を占領し、プレッシャーをかけました。さらに、中国に対して「二十一カ条の要求」を出し、日本がドイツの利権を継承することを要求します。
このときに日本が見せた中国侵略への野望が、アメリカやイギリスに警戒心を抱かせ、後の日英同盟の破棄につながったとされています。
1923年に日英同盟を破棄
第一次世界大戦が終結(1918年)した後、世界は平和と軍縮に向けて動き出しました。20年続いた日英同盟も、1921~22年のワシントン会議で破棄が決まります。
ワシントン会議では、日本とイギリスに、アメリカとフランスが加わった「四カ国条約」が締結されます。
このとき、日本の中国大陸進出を警戒したアメリカが、日本の勢力を削ぐために、日英同盟の解消を画策したのです。
当事者だったイギリスと日本も、既に同盟を続ける理由はないと判断したため、四カ国条約に日英同盟の破棄が盛り込まれます。
ワシントン会議が終わった翌年の1923年に、失効日を迎えた日英同盟は、こうして破棄されたのです。
この時代をもっと深く知るために
この時代の背景をもっと知りたい方のために、おすすめの本を紹介します。
PHP新書 「日英同盟 同盟の選択と国家の盛衰」
明治維新後の日本が結んだ日英同盟、連合国から疎外されるに至ったドイツの連盟など、これらの歴史的選択がその後日本の命運をどのように左右したかを、軍事外交史に詳しい著者が再検証。同盟の条件と意義から、近代外交の政策について解説します。
風詠社 単行本 「日英同盟かげの立役者 下田歌子」
天皇皇后につかえて和歌の才能を認められた下田歌子。欧米に留学したのちは、実践女子学園の創設など国内の女子教育のために奔走しました。その歌子のヴィクトリア女王との会見が、のちの日英同盟の布石となり日英関係に大きく貢献します。彼女の人生を通して、日本とイギリス二国間の外交史を垣間見ることができます。
日本の歴史において重要な日英同盟
強国ロシアに立ち向かうために結ばれた日英同盟は、日露戦争での日本の勝利に大きく貢献しました。近代的な軍事国家に成長し、侵略への道を突き進んでいた日本の歴史を語るうえで、日英同盟の締結は重要なできごとだったといえます。
ただし、軍事同盟が締結される背景には、弱い国への侵略や植民地支配といった暗い現実が横たわっています。子どもたちに平和の大切さを教えるのも、親としての大切な使命です。
当時の時代背景を理解して、次の世代を担う子どもにもしっかりと伝えてあげましょう。
構成・文/HugKum編集部