戦国時代って、いつのことを指すの?
日本史の「戦国時代(せんごくじだい)」とは、具体的にいつのことを指すのでしょうか。まずは一般的な定義を確認しましょう。
室町後期から江戸初期までの混乱の時代
戦国時代は、室町時代の後期から100年以上続いた戦乱の世を表す概念です。日本各地で常に争いが起こり、家臣などが実力で主(あるじ)を倒してのし上がる「下克上(げこくじょう)」も珍しくありませんでした。
戦国時代の始まりは、1467(応仁元)年の「応仁(おうにん)の乱」からとされています。応仁の乱とは、将軍の後継者争いに端を発し、全国の守護大名が二つに分かれて争った内乱のことです。
約11年続いた争いによって、室町幕府の権威は失墜し、混乱は全国へ広がっていきました。終わりの時期についてはさまざまな解釈がありますが、1615(慶長20)年の「大坂夏の陣(おおさかなつのじん)」までとする説が有力です。
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安土桃山時代との違い
戦国時代は、1568(永禄11)年の織田信長(おだのぶなが)の上洛(じょうらく)、または1573(天正元)年の室町幕府滅亡までとし、それ以降を「安土桃山(あづちももやま)時代」として分けて考える説もあります。
安土桃山時代は、信長が天下統一を目指し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が受け継いだ期間のことで、「織豊(しょくほう)時代」とも呼ばれます。1600(慶長5)年の「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が、時代の主役になるまで約30年間続きました。
この頃には、地方での小さな戦(いくさ)は減り、天下統一に向けての大規模な合戦が目立つようになります。ただし戦乱の世であることに変わりはなく、安土桃山時代も含めて戦国時代と考える方が自然ともいえるでしょう。
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戦国時代の流れと、主なできごと
戦国時代は、室町幕府滅亡を挟んで前後半に分けて考えると、理解しやすくなります。それぞれの時期に起こった、主なできごとを整理しましょう。
織田信長の台頭と室町幕府滅亡
応仁の乱以降、有力な守護大名や下克上を果たした新興勢力など、室町幕府に従わない領主が次々に現れます。
父親を追放して、甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)の領主となった武田信玄(たけだしんげん)や、守護の土岐(とき)氏から美濃国(みののくに、現在の岐阜県)を奪った斎藤道三(さいとうどうさん)などは、下克上を象徴する人物です。
日本各地で領地の奪い合いが起こるなか、頭角を現したのが尾張国(おわりのくに、現在の愛知県西部)の織田信長でした。1560(永禄3)年、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元(いまがわよしもと)を破った信長は、周辺の敵を次々に攻略して勢力を拡大していきます。
1568(永禄11)年、上洛した信長は、足利義昭(あしかがよしあき)を室町幕府15代将軍に据え、自ら政治の実権を握ります。最終的には義昭を追放し、室町幕府を滅ぼしてしまったのです。
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豊臣秀吉と徳川家康の天下統一
義昭の追放後、信長は天下統一を目指して敵対勢力との争いに明け暮れます。しかし1582(天正10)年、京都の本能寺(ほんのうじ)で明智光秀(あけちみつひで)に背かれ、信長は命を落とします。光秀や他の重臣を退けて信長の後継者となったのが、豊臣秀吉です。
1586(天正14)年に、太政大臣(だいじょうだいじん)に就任した秀吉は、1590(天正18)年に、関東と東北を平定して天下統一を果たしました。
1598(慶長3)年に秀吉が死去すると、徳川家康が台頭します。関ヶ原の戦いに勝った家康は、1603(慶長8)年に征夷大将軍に就任、江戸に幕府を開きます。その12年後には大坂夏の陣で豊臣家が滅び、長く続いた戦乱の世はようやく終わったのです。
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文化の特徴もチェック
戦国時代は新しい文化が生まれ、経済や技術が発展したことでも知られています。領主たちは、自国を富ませようと内政にも力を入れたため、農地の開墾(かいこん)が進み、地場(じば)産業が栄えました。
またヨーロッパの船が日本近海に現れるようになり、鉄砲やキリスト教が伝わります。特に1543(天文12)年に伝わった鉄砲は、武将たちに大変重宝されました。1575(天正3)年の「長篠(ながしの)の戦い」では、信長が大規模な鉄砲隊を組織して、騎馬隊中心の武田軍に圧勝しています。
戦国武将の間では「茶の湯」が流行します。名物と呼ばれる茶器を所有したり、茶会を開いたりすることがステータスとされ、政治にも影響を与えました。信長が茶器を家臣への褒美(ほうび)にしたことや、秀吉が千利休(せんのりきゅう)を重用したことはよく知られています。
信長・秀吉・家康以外の有名武将
戦国時代の主役は、何といっても個性的な戦国武将たちです。ここまでに紹介した武将以外で、全国に名をとどろかせた有名人を紹介します。
戦国大名の手本とされる「北条早雲」
北条早雲(ほうじょうそううん)は、戦国大名の先駆けといわれる武将です。もともと室町幕府や今川家に仕える身でしたが、1493(明応2)年に、伊豆(いず)で将軍の一族を倒す下克上を成し遂げ、一国の主となります。
その後、小田原(おだわら)城を手に入れて相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)を統一し、豊臣秀吉の小田原攻めまで存続する大大名・北条家の基礎を作りました。
なお、早雲と鎌倉時代の執権(しっけん)・北条氏とは無関係です。息子の代に北条姓を名乗っただけであり、執権の北条氏と区別するために「後北条氏(ごほうじょうし)」とも呼ばれています。
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軍神と恐れられた「上杉謙信」
戦国武将の中で、もっとも戦が強かったとされるのが越後国(えちごのくに、現在の新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)です。あまりの強さに、周囲は「軍神(いくさがみ)」と呼んで恐れました。
ただし、謙信は一般的な戦国武将と違い、領地を広げる野心を持っていなかったようです。武田信玄と5回対峙(たいじ)した「川中島(かわなかじま)の戦い」でも、武田軍が去った後は素早く領国へ引き上げ、深追いはしていません。
さらには塩不足で困っている甲斐国に、塩商人を行かせたとのエピソードまであります。強いうえに義に厚く、困っている者に手を差し伸べる人柄が、他の武将とは一線を画す存在として人々の心を魅了しています。
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中国地方の覇者「毛利元就」
一代で中国地方8カ国を制した毛利元就(もうりもとなり)も、戦国時代を象徴する武将の一人です。毛利家は、もともと安芸国(あきのくに、現在の広島県西部)の弱小豪族でしたが、元就は、策略を駆使して徐々に頭角を現します。
特に、圧倒的な兵力差のある相手を破り、中国制覇への足掛かりとなった1555(天文24)年の「厳島(いつくしま)の戦い」は、桶狭間の戦いや北条氏康(うじやす)の「河越(かわごえ)城の戦い」※と並び、日本三大奇襲(きしゅう)の一つに数えられています。
※源義経の「鵯越(ひよどりごえ)の戦い」を入れる場合も。
苦労して大大名となった元就は、一族の団結を常に気にかけていました。3人の息子に対して、矢を例に挙げて団結の大切さを伝えた「三本の矢」の話は、元就の人柄を表すエピソードとしてよく知られています。
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ドラマティックな戦国時代に思いを馳せよう
多くの武将が領地拡大を夢見て戦った戦国時代には、さまざまなドラマが生まれました。もし本能寺の変が起こらなかったら、もし鉄砲が伝わるのがもう少し遅かったら、今頃、日本はどうなっていたのでしょうか。
激動の戦国時代に思いをはせつつ、日本史への理解を深めていきましょう。
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構成・文/HugKum編集部